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  ヒグマなど野生動物 https://qr.paps.jp/a3VBA  https://nspc.naga-masa.com/00006.html
動物写真家の星野道夫さんは、アラスカの雄大な自然や野生動物、そこに暮らす人々を写真と文章で捉え続けた世界的な写真家です。 [1, 2]
主な経歴と業績
  • 生没年: 1952年9月27日〜1996年8月8日(享年43)
  • アラスカとの出会い: 慶應義塾大学在学中の1973年に単身アラスカに渡り、エスキモーの村でひと夏を過ごす。
  • 受賞歴: 1990年に『週刊朝日』連載「Alaska 風のような物語」などで第15回木村伊兵衛写真賞を受賞。
  • 急逝: 1996年8月8日、テレビ番組の取材で訪れていたロシア・カムチャツカ半島のクリル湖畔で、ヒグマに襲われ急逝。 [1, 2, 3, 4, 5]
著作やエッセイは今なお多くの人に愛され、学校の教科書などにも掲載されています。 [1, 2]
星野道夫さんについて、さらに知りたい情報はありますか?
  • 代表的な写真集や著作について
  • アラスカでの活動やエピソードについて
  • 開催されている写真展や最新情報について
知りたい内容があれば教えてください。

ヒグマによる人身事件の概要一覧(1970年~2000年12月)  
 
事件No. 発生年月日 発生地 被害者の行動  被害者の性別年齢 被害 加害グマ 加害原因 人身の食痕の有無
1   70.7.25~27 カムイエクウチカウシ山 遊山(登山) 男18,21,23歳 3名死亡,2名生還 雌2歳6ヵ月齢 排除 食痕有
2   70.7.27 士別市 山林作業(下草刈) 男75歳 1名負傷 雄3歳6ヵ月 排除(遭遇) 無
3   70.12.5 八雲町 狩猟行為(深追) 男49歳 1名死亡 雄(8歳) 排除 無
4   71.11.4 滝上町 狩猟 男68歳 1名死亡 雄(10歳) 排除 食痕有
5   72.4.6 美深町 狩猟 男41歳 1名負傷 雄4~5歳 排除 無
6   73.5.2 当別町 狩猟 男55歳 1名負傷 雄成獣 排除 無
7   73.5.6 木古内町 遊山(山菜採り) 男50歳 1名死亡 雄「若熊」 排除 無
8   73.9.17 厚沢部町 山林作業(筋刈) 男45歳 1名死亡 母獣 食害 食痕有
9   74.5.3 上ノ国町 狩猟 男44歳 1名負傷 雌6歳 排除 無
10   74.8.15 留辺蘂町 狩猟 男46歳 1名負傷 「2歳」 排除 無
11   74.11.11 斜里町 狩猟 男37歳 1名死亡 雄14~16歳 排除 無
12   75.4.8 長万部町 山林作業(毎木調査) 男53歳 1名負傷 (若熊)穴熊 排除 無
13   75.7.1 浦幌町 山林作業(下草刈) 女40歳 1名負傷 「2歳」 排除(遭遇) 無
14   76.6.4 千歳市 山林作業(伐採) 男56歳 1名負傷 雌2歳4ヵ月齢 食害 無
15   76.6.5 千歳市 遊山(山菜採り) 男53歳 1名負傷   食害 無
16   76.6.9 千歳市 遊山(山菜採り) 男58,54歳 2名死亡 同一個体 食害 1名に食痕有
  男26歳 1名負傷  
17   76.12.2 下川町 山林作業(除伐) 男54歳 1名死亡 母獣13歳穴熊 排除 無
18   77.3.31 三笠市 山林作業(毎木調査) 男45歳 1名負傷 雄「若熊」 排除 無
19   77.4.7 滝上町 山林作業(除伐) 男39歳 1名負傷 母獣穴熊 排除 無
20   77.5.27 大成町 遊山(山菜採り) 男55歳 1名死亡 雌4歳8ヵ月齢 食害 食痕有
21   77.9.24 大成町 遊山(川魚釣り) 男36歳 1名死亡 同一個体 食害 食痕有
22   79.4.26 枝幸町 狩猟 男69歳 1名負傷 母獣穴熊 排除 無
23   79.6.14 富良野市 熊が直接原因ではない  
24   79.9.28 江差町 山林作業(下草刈) 男79歳 1名負傷 「2歳」 排除 無
25   80.2.25 佐呂間町 山林作業(除伐) 男50歳 1名負傷 母熊穴熊 排除 無
26   80.10.27 羅臼町 狩猟 男57歳 1名負傷 母獣 排除 無
27   81.5.15 穂別町 遊山(山菜採り) 男45歳 1名負傷 母獣 排除(遭遇) 無
28   81.8.1 えりも町 狩猟 男38歳 1名負傷 母獣 排除 無
29   83.5.19 置戸町 山林作業(測量) 男34歳 1名負傷 雄「若熊」 排除(遭遇) 無
30   83.6.4 島牧村 遊山(山菜採り) 男48歳 1名負傷 「2歳」 戯れ 無
31   83.7.11 八雲町 山林作業(土木工事) 男37歳 1名負傷 (2歳) [自損] 無
32   84.5.5 滝上町 熊が直接原因ではない  
33   84.8.3 広尾町 山林作業(調査) 男49歳 1名負傷 母獣 排除(遭遇) 無
34   85.4.22 羅臼町 狩猟 男62歳 1名死亡 不明 排除 無
35   85.7.16 福島町 畑作 女59歳 1名負傷 「2歳5ヵ月」 戯れ 無
36   86.8.3 斜里町 巡視(漁場) 男59歳 1名負傷 母獣 排除(遭遇) 無
37   89.11.15 広尾町 狩猟 男51歳 1名負傷 母獣 排除 無
38   89.11.24 弟子屈町 狩猟 男40歳 1名負傷 母獣 排除 無
39   90.3.7 芦別市 山林作業(毎木調査) 男52歳 1名負傷 母子熊穴熊 [自損] 無
40   90.9.21 森町 遊山(キノコ採り) 男75歳 1名死亡 雄2歳8ヵ月 食害 食痕有
41   90.10.21 上ノ国町 山仕事(五葉松採り) 男85歳 1名死亡 「2歳」 排除 無
42   90.10.30 紋別市 狩猟 男54歳 1名負傷 母獣 排除 無
43   91.5.12 上ノ国町 遊山(山菜採り) 男58歳 1名負傷 「2歳」 戯れ 無
44   92.5.12 上ノ国町 遊山(山菜採り) 男62歳 1名負傷 若熊 [自損] 無
45   92.11.17 遠軽町 山林作業(除伐) 男54歳 1名負傷 「若熊」 排除(遭遇) 無
46   93.10.2 函館市 狩猟 男77歳 1名負傷 雄(14歳) 排除 無
47   95.2.13 紋別市 山林作業(除伐) 男52歳 1名負傷 雌「若熊」穴熊 排除 無
48   96.6.2 紋別市 遊山(山菜採り) 男60歳 1名負傷 母獣 排除(遭遇) 無
49   97.8.24 滝上町 狩猟 男66歳 1名負傷 雄(7歳) 排除 無
50   98.11.23 白糠町 狩猟 男44歳 1名負傷 雄(7~8歳) 排除 無
51   98.11.23 新得町 狩猟 男51歳 1名負傷 雌(成獣) 排除 無
52   99.5.1 木古内町 遊山(川魚釣り) 男47歳 1名死亡 雄2歳3ヵ月 食害 食痕有
53   99.5.11 木古内町 遊山(山菜採り) 女30,50歳 2名負傷 同一個体 排除 無
54   99.10.10 登別市 遊山(山菜採り) 男31歳 1名負傷 若熊 排除(遭遇) 無
55   99.10.31 音別町 狩猟 男64歳 1名負傷 雄(3歳) 排除 無
56   99.12.19 紋別市 狩猟 男58歳 1名負傷 雄(6歳) 排除 無
57   00.4.23 上磯町 遊山(山菜採り) 男68歳 生還 若熊 戯れ 無
58   00.6.4 恵山町 山林作業 男75歳 1名負傷(軽傷) 母獣 排除(遭遇) 無
59   00.11.1 白糠町 狩猟(鹿) 男60歳 1名負傷 母獣 排除 無
60   00.11.12 平取町 狩猟(鹿) 男73歳 1名死亡 不明 排除 無
1970年1月1日以来2000年12月28日現在まで、60件の事件が発生したことになっているが、
この内5件(事件Nos. 23,31,32,39,44)は実際には熊は人を襲っておらず自損事故である。
したがって、熊による人身事故は一般人の事故(33件)、猟師の事故(22件)の、総計55件である。
一般人の事故33件の熊が襲った原因は「戯れ」4件(Nos.30,35,43,57)。
「食害」8件(Nos. 8,14,15,16,20,21,40,52)。
「排除」21件(1,2,7,12,13,17,18,19,24,25,27,29,33,36,41,45,47,48,53,54,58)。
排除の内遭遇(不意の出会い)によるもの10件(事件Nos. 2,13,27,29,33,36,45,48,54,58)である。
一般人の死亡事故は10件で、この中、武器不携帯8件(1,8,16,20,21,40,41,52)、武器携帯2件(7「携帯の有無が不明である」,17)。
この内被害者の身体に熊に喰われた痕があるもの7件(事件Nos. 2,4,8,20,21,40,52)である。
生還した事件は23件(2,12,13,14,15,18,19,24,25,27,29,30,33,35,36,43,45,47,48,53,54,57,58)である。
この中武器携帯9件(2,12,18,24,27,43,48,57,58)、武器不携帯14件(3,14,15,19,25,29,30,33,35,36,45,47,53,54)である。
また、熊が積極的に襲ってきた事故は11件(1,14,15,18,24,30,43,48,53,57,58)、被害者が熊を見て逃げて襲われた事故9件(2,13,27,29,33,35,36,45,54)である。
穴熊とは冬ごもり中の熊のこと。  
若熊とは2~3歳の熊のこと。  
母獣とは子を連れた母熊のこと。  
 
 
 
ヒグマによる人身事故を防ぐためにも事故の具体例をご紹介します。  
 
 一般人がヒグマに襲われてその熊を撃退した事例 その1  
以下の内容はすべて私の調査結果に基づくものである  
 
 1,襲い掛かってきた熊を手鎌で叩き、さらに鉈で叩き脅して撃退する。  
事件No.2  一九七〇年七月二十七日士別市での事例  
武山藤吉さん七十五歳が一人で植裁二年のカラマツ林の下草刈をしていた午後四時頃、突然四〇㍍ほど先に一頭の熊(雄三歳六ヵ月齢)が現れ、武山さんには目もくれず笹原に頭を突込みながら自分の方に進んできたので、二〇㍍ほど走って逃げたところで、つまずき前のめりに転び、起き上がろうとした途端、左臀部を囓り左肩に爪を掛けたが、起き上がる動作をしていたので熊の攻撃から逃れた。振り返ると、熊は四つん這いで口を閉じたまま鼻を突き出して来たので、手に持っていた草刈り鎌(刃渡り二四㌢、重さ五百㌘)で熊の頭を思い切り叩きつけた。その瞬間鎌は武山さんの手から外れ、熊は頭に鎌を付けたまま、地面に激しく頭を打ち付けながら後退した。直ぐに鎌が熊の頭から外れたが、今度は熊はあたかも猫が鼠を狙うように、前足をかがめ顔を地面につけるようにして武山さんの方を見ていたが、熊と目が合った瞬間、熊は飛ぶように突進してきた。両者は直径二〇㌢ほどのカラマツを挟んで睨み合いになったが、武山さんは腰に鉈を着けていることを思い出し、全身に力が湧いて来るような気がした。鉈でカラマツごしに熊を叩きつけようとしたが、何度か空振りしたが、そのうち熊の鼻付近を叩いたような気がした。すると熊は急に向きを変え、四㍍ほど離れ、口を幾度も開閉しなおも武山氏を睨むように見ていたが、氏が大声で「掛かって来るなら来い」と鉈を振り上げて熊を怒鳴りつけると、熊は幾度も立ち上がったりしたが、その中、急に飛ぶように退行し逃げ去った。襲った原因は遭遇による不快感から、その場から人を「排除」するためである。なお、鎌の刃先は一㌢ほど折れ、殺獲後に調べたら刃先が頭蓋に刺り残っていた。
 
 2, 襲い掛かってきた熊をスコップを振り回し追い払う   
事件No.12 一九七五年四月八日長万部町での営林署作業員の事例  
成田長一さん五十三歳は仲間二人と午前十時頃国縫川上流の稲穂嶺の尾根で毎木調査中に、不覚に熊穴の入口付近に腰まで抜かり、直ちに這い上がって斜面を登り出したところ、その穴から一頭の熊(二、三歳の若熊である)が飛び出て来て、背後から襲い掛かり、まず右下腿後部を長靴の上から噛みついた。成田さんは咄嗟に持っていた角形長柄スコップを振り回して対抗したら、熊は次に右手背部を軍手の上から囓ったが、さらにスコップを振り回して防戦したら、熊は斜面下方に逃走した。熊が人を襲った原因は越冬穴を確保し続けるために、不意に現れた人間をその場から「排除」するためである。
 
 3, 襲い掛かってきた熊を大声で撃退する。  
事件No.15 一九七六年六月五日千歳市の事例  
風不死岳山麓でタケノコ「根曲がり竹」採り、帰ろうとしていた檜山昌喜さん五十三歳は九時半頃、突然直ぐ側の藪でガサガサ音がするので振り向いた途端、直ぐ側に(三㍍ほど先に)一頭の熊(二歳四ヵ月齢の雌)が、猫が鼠を狙うように頭を下げ這うような格好で睨んでいた。重いリックを外し後ずさりしようとした途端、藪に足を取られ転んだ。その途端熊が左足に噛みついてきた。そこで右足で熊の顔を蹴飛ばしたら、咬んでいた左足を離し、今度は右足大腿部を爪で突き刺しつつ押さえ込んで来た。この騒ぎに義弟の片野正さん四十六歳が気づき、大声で熊を怒りつけたところ、熊は檜山さんから離れた。さらに二人で熊を「大声を張り上げて脅しつけた」ところ熊は藪に入ったので下山した。襲った原因はその四日後に同所近くで同一熊による「人の食害事件」が発生しているので、食害ないし排除(その場からの)である。
 
 4, 襲い掛かってきた熊を手斧の嶺で叩き追い払う   
事件No.18 一九七七年三月三十一日三笠市での営林署作業員の事例  
鶴谷覚さん四十五歳は仲間三人と午前の毎木調査を終え昼食中の正午過ぎに、突然七㍍ほど下に一頭の熊(雄の若熊である)が出、樹の根本に座り込み、二十分ほどこちらを見ていたが、ほどなく斜面下え姿を隠したので、熊が下りた反対方向に下山しかけたら、その斜め方向から熊が追ってきた。驚いた四人は沢目がけて走り下りたが、その途中で鶴谷氏は転んで一回転しあぐらをかく姿勢で起き上がろうとしたら、目の前にその熊おり、突然右足を長靴の上から咬んだ。「痛い」と叫び右足を退くと今度は左足を咬んだ。鶴谷さんが「鉞くれ」を叫んだら、近くにいた同僚の浜本氏が鉞を鶴谷さんに投げ渡した。鶴谷さんはそれを拾い熊の頭を鉞のみねの部分で一回叩いたら熊が囓るのを止め離れた。鶴谷さんは立ち上がり熊としばらく(五分間ぐらい)睨み合いをしたすえ、熊が斜面下方に立ち去った。襲った原因は食物が目当で、それを持っている人間を「排除」し食物を入手するためである。
 
 5, 襲い掛かった熊を第三者が大声と大鎌で脅して撃退する。  
事件No.24 一九七九年九月二十八日江差町の事例  
山吹茂平さん七十九歳は正午過ぎ、娘の工藤悦子さん五十二歳と植裁五十年の杉林で下草刈を中断して昼飯を食べていたら、突然ガサガサという音と共に一頭の熊(山吹さんによると二、三歳の小熊だという)が山吹さんの側に出現、背に爪を掛けた(山吹さんは難聴で熊に全く気づかなかった)。悦子さんが驚いて、柄の長さ五尺(一・五㍍)の鉈鎌で熊を叩きつけようと大声を立てたら、熊は山吹さんから離れ藪に消えた。襲った原因は弁当目当てで、食べている者を排除して弁当を取ろうとしたものである。
 
 6, 襲い掛かってきた熊を包丁で刺し、さらに大声で脅して撃退する。  
事件No.27 一九八一年五月十五日穂別町の事例  
穂別の通称石油の沢で、アイヌネギを採っていた隈井亨さん四十五歳は十時二十分頃、沢岸の斜面上方三〇㍍付近に三ヵ月齢の小熊一頭と母熊を見つけ、驚いて沢下に逃げたら、母熊が脱兎の如く追って来て、地面に頭をつける格好で隈井さんを威嚇し始めた(夢中だったので熊との距離は覚えていないという)。隈井氏は刃渡り二五㌢ほどの肉切り包丁を右手に構え、襲って来たら目を突いてやろうと対峙した。まもなく熊は立ち上がりざま襲い掛かってきて、隈井さんは倒され一瞬気が遠くなりかけたが、直ぐ気を取り戻し、熊を払い除けようと包丁を振り回したら、包丁が熊の口の中に「ガクッ」という音がして刺さり、その瞬間熊が激しく頭を動かしたら包丁が熊の口から外れた。途端に熊は隈井さんから離れ、口から唾と共に血を吐くのが見えた。隈井さんが大声で熊を威嚇すると、斜面を一目散に駆け上がり姿を消した。襲った原因は子を保護するために、その場から人を「排除」するためである。なお、包丁の刃先は二㌢ほど折れて欠けていた。
         
 7, 襲い掛かってきた熊を石で叩き撃退する   
事件No.35 一九八五年七月十六日福島町の事例  
十五時三十分頃佐藤むめ子さん五十九歳は、白符駅近くの畑に向かった。その途中笹藪からガサガサ物音がしたので振り返ると、その笹藪に一頭の熊(二歳五ヵ月齢の雌)が立ち上がって自分を見ているのに気づき、今来た道を大声で「熊だー」と叫びながら走って戻りながら、後ろを振り向くと、熊が猫がじゃれるような姿でピョンピョン跳び跳ねながら追って来て、直ぐに追いつかれてしまった。思わず熊の方を向いた状態で道路に座り込んでしまった。熊が右腰に齧り付いたが、厚着していて歯が肌に達しなかったが、今度は右足の踝下を長靴の上から咬み、一・八㍍ほど引きずられた。熊に向かって「助けて」と叫び、気が着いたら拳大の石が近くにあったので、それを掴み、それで熊の顔を叩いた。その途端自分は少し気を失ったようで、気づいたら熊がいなかった。熊が人を襲った原因は「戯れ」である。
 
 8, 襲い掛かってきた熊を鉈で叩き、さらに投石して撃退する  
事件No.43 一九九一年五月十二日上ノ国町の事例  
小田良平さん五十八歳が蕗採りに「磯石沢」に入り、九時半頃何か下流で物音がするので、見ると熊が一頭いるのに気づき立ち止まると、その熊(挙動から二、三歳の若熊である)はどんどん近づいて来て、小田さんの五㍍まで近づいた。 熊は立ち上がりざま右手で小田さんの左大腿部を攻撃してきたので、それを避けようとして後ずさりした途端俯せに小田さんは転んでしまった。その瞬間熊が背中に覆い被さるようにして背中と臀部を爪か歯で攻撃してきた。氏は咄嗟に左腰に付けていた刃渡り二〇㌢の鉈を抜き、熊の顔面を四、五回叩いたら、熊は小田さんから離れ、後ずさりした。しかし、再度熊が寄ってきたので、、石を四、五回投げたらその一つが熊に当たったようで、熊が怯んだように見えたので、小田さんは後ずさりしながら熊から離れ下山した。襲った原因は「戯れ」である。
 
 9, 襲い掛かってきた熊を、同僚が呼子で追い払う   
事件No.47 一九九五年二月十三日紋別営林署作業員の事例  
山本豊造さん五十二歳は腰に熊除け鈴を着け仲間六人と除伐中、不覚に熊穴の入口一・五㍍にある柳を伐裁した瞬間、雪中の熊穴から熊(雌、二、三歳の若熊である)が一頭飛び出てきた。逃げようとした瞬間俯せに転び鉈鎌(柄長一・二㍍、刃渡り二六㌢、重さ一・六㌔)を手放すと同時に熊が体背に襲い掛かってきた。あちこち咬まれ引っ掻かれながらも素手で熊に対抗しながら、叫び声を上げたらしく、その場から約一九㍍離れた地点にいた竹中賢さん五十一歳が事の異常に気づき、ホイッスル(呼子)を吹いた瞬間、熊は山本さんか
ら離れ斜面下方に逃げた。熊が人を襲った原因は越冬穴を確保し続けるために、不意に現れた人間をその場から「排除」するためである。  
 
 
熊の撃退例 その2  
 
 熊に襲われながら、生還した人達の熊への具体的な対応と防戦を見てみよう。  
 
 事件No.13、(浦幌町、一九七五年七月一日)熊を見て逃げる途中転んだら、熊が襲い掛かって来て、足を爪と歯で攻撃してきたが、これに気付いた同僚数名が大声で騒ぎ立てたら、熊が立ち去った。
 事件No.14、(千歳市、一九七六年六月四日)熊(雌二歳)に組み伏されている同僚の叫び声を聞き、長さ五尺の金テコ持参で、その場に行くと熊は藪に逃げ込んだが、再度熊が出て来て襲うそぶりなので、金テコで脅しつつ、ブルトーザーに戻り、エンジン駆けたら、熊はその音に驚き藪に立ち去った。
 事件No.19、(滝上町、一九七七年四月七日)越冬穴から熊(母熊)が飛び出て来たのを見て、逃げる途中転んだら、熊が首や肘に囓りついてきた。それを振り切ろうともがいている中に、右手が熊の口腔に入ったら熊は突然離れ唸りながら、幾度も穴の方を振り返りながら(穴には新生子が二頭いた)立ち去った。母熊の子を思う心情は如何ほどか。
 事件No.25、(佐呂間町、一九八〇年二月二十五日)越冬穴から熊(母熊)が飛び出て来たのを見て、逃げる途中転んだら、熊が額や手に囓りついてきたので、大声で「助けてくれ」と叫んだ。これに気付いた同僚達数名が呼笛や大声で騒ぎ立てたら、熊は人から離れ、穴に戻る動作を示した後(穴には一歳過ぎの子が二頭いた)、斜面を駆け下り立ち去った。母熊の子を思う心情は如何ほどか。
 事件No.29、(置戸町、一九八三年五月十九日)熊を見て逃げたら、熊(若熊)が襲い掛って来て俯せに倒され、爪で引っ掻かれたが、もがきながら大声を立てたら、三十㍍ほど離れた林道にいた同僚がこれに気づき、同僚も大声を立てたら、熊は離れ立ち去った。
 事件No.30、(島牧村、一九八三年六月四日) 突然目の前に一頭の熊(二歳)が、藪から出て来て咄嗟に襲い掛かって来たので、素手でもがき抵抗し、手が熊の口中に入ったり、熊を足で蹴飛ばしたりしている中、熊もろとも斜面を七、八㍍転げてしまい、その間に熊は離れ立ち去った。
 事件No.33、(広尾町、一九八四年八月三十日)二頭の当歳子を連れた熊(母熊)を見て、逃げる途中転んだら、母熊が襲い掛かってきた。足を噛まれながらも、素手でもがいたら、熊が離れ藪に去った。
 事件No.36、(斜里町、一九八六年八月三十日)強風に逆らい下を向いて歩き、顔を上げた途端目の前に、二頭の当歳子を連れた母熊がいたので、咄嗟に二、三歩後退したら、熊が脱兎のごとく走り寄り、すれ違いざま腕を引っ掻き通り過ぎた。そこで走って逃げたら、熊が追って来て、五㍍まで近づいてきたが、熊を脅すべく、細引き紐を振り回しながら大声を立てると、熊は立ち去った。
 事件No.45、(遠軽、一九九二年十一月十七日)田丸朗郎氏(五十四歳)が、熊(若熊)を見て逃げる途中転んだら、熊が追ってきて襲い掛かり、手を噛まれたが、声をたてもがいていたら、同僚が気づき笛を吹いたら、熊は離れ立ち去った。
 事件No.48、(紋別市、一九九六年六月二日)細川傳ツトウさん(六十歳)は山菜採りに行き、午前四時半頃林道の曲がり角で樹に登っている当歳熊二頭を挟む状態で母熊と十数㍍の距離で遭遇し、瞬時にその母熊に襲われ抱き付かれ、共に斜面を転げ落ち地面に組み伏されて身体のあちこちを噛まれながらも、刃渡り二十五㌢、柄長十七㌢ほどの剪定鋸で反撃、熊の口中をそれで刺したら、熊が離れ立ち去った。
 
 
 つぎの事例は非常に残念な事件で、全員生還しえる機会があったにも拘わらず、熊を甘く見た結果三名が熊に襲われ落命した事例である。
 
一九七〇年七月日高山脈での事例、学生五人中三人殺され二人生還  (事件No.1)  
七月二十五日午後四時三十分頃、札内川九ノ沢南カールで夕食を終えた竹末君がテントから二五㍍ほど先に一頭の熊(雌二歳六ヵ月齢)を見つけた。その熊は次第にテントに接近し、テントに六、七㍍まで近づき、そこにあるザックをあばき、食料を食いだした。熊の隙を見てザックを全部テントに入れた。焚火をしたりラジオの音量を上げたりしたら熊は立ち去った。しかし夜九時頃熊がテントに来て拳大の穴をあけたが、まもなく熊はいなくなった。翌二十六日午前四時半頃熊がテントに来てテントを揺すり始めた。五分間ほど熊と人がテントの引っ張り合いをしていたが、全員熊と反対側のテントの端を上げ抜けだし、四〇~五〇㍍高みへと避難し、振り返ると熊がテントを倒し、中のザックを暴いていた。熊が立ち去った後、ザックやテントを回収し、カムイエクウチカウシ北の一八八〇㍍の瘤で午後四時半頃夕食を終え寝る準備をしていたところ、また同じ熊がテントに向かって来た。全員テントから離れ熊の様子を一時間半ほど監視していたが、熊がテントから離れないので、テントを放棄し、八ノ沢カール目がけて下り出した。 稜線から六〇~七〇㍍ 下りた時、滝君の後方一〇㍍付近に熊がいるのに気づき、全員一斉に駆け下った。滝君が横に逸れると、熊はそれに気づかず、河原君を襲った。河原君か這松の中から出て、「畜生」と叫びながらカールへと下って行った。滝・竹末・西井の三君は岩塊堆積地でその夜をすごした。興梠君はカールに下る途中でまた同一熊に遭遇、寄って来たので一五㌢大の石を熊目がけて投げつけたら熊に命中し熊はしばらく睨んでいたが立ち去った。同君は翌二十七日の午後三時頃まで日記を付けており、その後熊に襲われ死亡した。滝・竹末・西井の三君は二十七日午前八時頃、竹末・滝・西井の順で下り出したが、十五分ほどして竹末君の下方二、三㍍に熊が出現、一瞬身を伏せたが、熊の唸り声と共に竹末君が立ち上がり、熊を押しのけ、カールの方へ熊に追われ走り去った。滝・西井の両君のみ生還した。竹末君の遺体は昨夜過ごした岩場の下方の涸沢のガレ場で、その北斜下方一〇〇㍍のガレ場で河原君の、さらに三〇〇㍍下方の涸沢で興梠君の遺体が発見された。襲った原因は食物が入っているザックを熊が一度自分の物(所有物)としたにも拘わらず、取りかえされたために、さらにそれを確保するために邪魔な人間を「排除」するために執拗に襲ったものである。
 
 
一般人がヒグマに襲われて死亡した事例  
 
 事件No. 8 厚沢部町の事件  
一九七三年九月十七日、営林署作業員の糸畑幸雄さん四十五歳は同僚五名と、刈払機で造林地の笹の筋刈中の、午前十一時半頃八ヵ月齢の子一頭を連れた母熊に襲われ、そこから四〇㍍ほど離れた雨裂に引きずり込まれ死亡していた。地下足袋以外衣服が破がされ全裸に近い状態であった。鉈は携帯しておらず素手で熊に対抗したらしい。
熊が人を襲った初期原因は子を保護するためにその場から人を「排除」するためと考えられるが、倒した人を熊が安心できる雨裂に移動させていることから、襲っている途中で人を食物と見なしたことは間違いない。
 事件No.16 千歳市の事件  
一九七六年六月九日、支笏湖の風不死岳山麓に笹竹の子採りに入った相馬春男さん五十八歳と高橋朝雄さん五十四歳が、熊(二歳五ヵ月齢)に襲われ殺され足の筋肉部を喰われた。両名とも刃物は全く持参していない。熊が人を襲った原因は「食害、喰うため」である。
 事件No.17 下川町の事件  
一九七六年十二月二日、営林署作業員の鷲見秀松さん五十四歳が、不覚にも熊の越冬穴上の樹を除伐した途端、一頭の熊が雪下から飛び出し襲い掛かってきた。氏は刃渡り二八㌢、 柄長一二〇㌢、重さ一・六㌔の鉈鎌で反撃したが、熊に抱きつかれ致命傷を受け死亡した。熊は母熊で、後で八ヵ月齢の二子(雄)が穴に潜んでいるのが見つかった。
襲った原因は子の保護と越冬穴の保持のために、人をその場から「排除」するためである。  
 事件No.21 大成町の事件  
一九七七年九月二十四日、 大成町管内、小川に単独で川魚釣りに入った佐藤正市さん三十六歳が熊(雌四歳八ヵ月齢)に襲われ殺された。遺体はその熊が安心できる窪地まで二〇数㍍m引きずられ、さらに遺体には付近の丈の長い笹(一~一・三㍍)やシダ類が顔面から膝までかけてあった。刃物は持参していない。熊が人を襲った原因は「食害、喰うため」である。
 事件No.40 森町の事件  
一九九〇年九月二十一日、森町管内、鳥崎川上流のカラマツ林に単独でキノコ採りに入った安谷内正義さん七十五歳が熊(雄二歳八ヵ月齢)に襲われ殺された。遺体は熊が好む環境、すなわち空き地があって、しかもその周囲が草木で囲まれていて外部から内側が見透かせないような場所に引きずり込まれ、筋肉部が喰われていたことから原因は「食害、喰うため」である。刃物は持参していない。
 事件No.52 木古内町の事件  
一九九九年五月十日、 木古内町管内、木古内川支流の「トンガリ沢」に単独で渓流釣りに入った大谷津隆房さん四十七歳が熊(雄二歳三ヵ月齢)に襲われ殺された。遺体はその熊が河岸上の高みの窪地に潜み監視できる川岸まで引きずられていた。筋肉部が熊に喰われていた。刃物は持参していない。熊が人を襲った原因は「食害、喰うため」である。
2000年に起こったヒグマによる人身事件の顛末
 事件No.57 若グマを、樹に登り切り取った枝で撃退する  
2000年4月23日、函館市末広町の、佐々木幸吉さん(68歳、元営林署員)が、上磯町の茂辺地市街から約9km奥の戸田川林道に入り車を止め、コゴミを探しに入林した昼の12:30頃、15mほど先に動く黒い塊が見え熊だと気づき、付近の手掛かりのあるスギの樹(直径27-28cm)に地面から7-8m登った。熊は佐々木さんには気づかずに山菜を物色したり、古タイヤで遊んでいたが、13:30頃佐々木さんが林道を来る男女2人に気づき(佐々木さんからは約40m離れていた)、熊いるぞと放声したら、その男女は逃げたが、熊が木の上の佐々木さんに気づき、樹にゆっくり近づき、下から見上げたかと思うと、樹に登ってきた。佐々木さんは腰につけていた鉈で長さ約1.5m 太さ3cm弱の枝を切り取り槍のようにして身構え、足下まで登って来た熊の顔をつついて反撃した。熊は2-3分ほどして諦め樹から中程までずり降り飛び降りた。それから熊は15-20分間ほど樹の下にいたが、ほどなくそこから10-15mほど離れたスギの樹に熊が佐々木さんがいる高さほどまで登り佐々木さんを見ていたが、2-3分ほどで熊は樹を降り、再び佐々木さんがいる樹に登って来た。佐々木さんはまた同じ木の枝で熊の顔を反撃したら、5-6分で熊は樹から降りたが、熊はそれから樹の下から離れようとせず、やっと20分ほどして熊がそこを離れ、佐々木さんの車がある同方向の40-50m先の藪に姿を消したのは14:30頃である。さらに佐々木さんが樹を降りたのは15:30で、熊が入った藪横の林道通り100mほど離れた車にたどり着き自宅に戻った。加害熊は挙動から2-3歳の若熊と看取される。襲った原因は戯れであろう。樹に登り逃げ積極的に反撃したことで、生還しえたものである。佐々木さんは帰りがけに駐在所に寄り、先の男女が自分の難を警察や消防や役場などに届け出ていたか確認したところ、全く出ておらず、社会仁義に反すると憤慨していた。
 事件No. 58 母子グマを手鎌で撃退する  
2000年6月4日、恵山町、漁業、田中長之助さん(75歳)が、植栽10年のトドマツ・スギ(丈約3m)の下草刈りしての帰りの11時半頃、幅約1mの小道を歩き下ってきたら、20mほど先に置いてきた自転車の側に黒い塊が見え熊(母子)だと気づいた途端、母グマが一気に突進してきて、右足長靴の甲の部分に熊が爪を掛けたが直ぐに外れた(甲にかすり傷ついたが医者に行くほどではかった)。さらに口を開けて掛かろうとすること10数回、左手に2尺の鋸と右手に手鎌(柄長45cm、刃渡り23cm)を持っていたので、それを振り回したら熊の頭に手鎌が当たった感じがし、熊が子の方に戻ったが、子熊が寝ていて動かないので、母グマもその側から離れない。5-6分してから、熊を巻き込むように熊の側を走り越したら、また母グマが猛然と追ってきた。樹を介してまた熊が襲い掛かるので、鋸と手鎌を振り回し抵抗したらまた熊の頭に手鎌が当たった感じがし、熊が子の方に戻ったので、今度は走らずに熊から離れ自宅に戻った。14時30分ころ熊撃ちの猟師と現場に来てみたが熊はいなかった。そこは最奥人家から約270mほどの地点である。加害熊は母グマである。襲った原因は子を保護するために接近する人を「排除」しようとしたものであり、積極的に反撃したことで、人は生還しえたものである。子グマは体長1mほどと田中さんはいうが、寝るなどの生態から4ヶ月齢と看取できる。
 事件No. 59 猟師熊に反撃され重傷  
2000年11月1日、釧路管内白糠町上茶路の国有林で鹿猟中の猟師、原田勝男氏(60歳)は、午後0時15頃母子熊と見られる母グマを撃ち損じ反撃され頭部に重傷を負った。後で死亡している熊を見つけた。
 事件No. 60 猟師熊に反撃され死亡  
2000年11月12日、日高管内平取町岩知志の国有林で鹿猟中の猟師、安田貞二氏(73歳)は、熊を(撃ち損じ)反撃され頭顔部を攻撃され死亡しているのが、翌13日に捜索隊が見つけた。熊は山狩りを2日間したが、獲れずじまいである。左頭部陥没、右眼部に傷、左手に傷。
星野道夫さんの死  
 動物写真家の星野道夫さん(四十三歳)が、テレビ番組(どうぶつ奇想天外)取材で一九九六年八月にカムチャッカ南部のクリル湖畔で幕営中に、羆に夜襲され、喰われる悲事があった。その場所は、私も一九九三年八月に日本人として最初に羆の研究で訪れたが、私はこの種の人身事件の度に、被害者の無知ににがにがしさと、人を襲ったために殺獲された熊に哀れさを感じる。星野さんを襲った熊は、直ぐに筋肉部を食べたと記録にあるから、襲った原因は「喰うため」と見てよいだろう。報告書には七、八歳の雄熊とあるが、その熊は殺獲後ヘリコプターに吊し州都への帰路の途中捨てたとあり、年輪数による正確な年齢が書かれてないが、北海道での事例からして四歳以下の熊であることは間違いないと思う。熊の棲家での幕営そのものには何ら問題ないが、星野さんは「熊の中には人を襲うものも居ることを自覚し、そういう熊が襲ってくる場合のことを想定し武器(鉈など)を携帯すべきなのに」それを怠ったと言わざるを得ない。熊除けスプレーを星野さんは持っていたというが、熊は襲い始めたら、スプレーの有効距離の四㍍よりも離れた地点から、瞬時に襲いかかるし、テントの中からではなおさらスプレーは通用しない。
 星野さんも「鉈などで反撃していれば、生還しえたろうと」私は強く思う。星野さんは熊の本性を理解していなかったために殺され、それ故に加害熊も殺獲された。これも野生に対する無知が、自然に迷惑をかけた実例だと私は思う。熊との対峙で「自分だけは熊に襲われないだろう」という甘えは通用しない。熊の棲み家では自衛に鉈(鉈は誰でもが合法的に携帯できる唯一の武器である)を持ち歩くことが、熊に万が一襲われた場合にも生還するための条件である。TBS(テレビ局)広報部資料には、星野さんは「ここのこの時期の熊は、紅鮭が多く遡上し餌が豊富故人を襲うことはない」と幕営したとあるが、「熊が人を襲い喰うことと自然の餌の多寡には何ら相関性はなく、餌が豊富だから人を襲わない」という考えは誤りである。 
 

札幌丘珠事件

札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)とは、1878年(明治11年)1月11日から1月18日にかけて北海道の石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)で発生した熊害事件。

冬眠から目を覚ましたエゾヒグマが猟師や開拓民の夫婦を襲い、死者3名、重傷者2名[1][2]を出した[注 1]。記録されたものとしては日本史上4番目に大きな被害となった熊害事件である[3]。

事件の経緯

事件当時の札幌は和人の定住者が現れてから20年あまり、市街地の整備や農地の開墾は急ピッチで進められていたものの、市域を少し出れば原始そのままの大森林や草原に覆われていた。人口は、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」で3,000人、後に札幌市に組み込まれることになる周辺の農村すべての人口を合計しても、8,000人に満たなかった[2]。

第一の事件

札幌市中央区、幌見峠から望む円山。奥は現在の札幌市街

1878年(明治11年)1月11日、爾志通(現在の札幌市中央区南2条)在住の猟師・蛭子勝太郎[2]が郊外の円山山中で、冬眠中のヒグマを発見した。早速狩ろうと試みたものの撃ち損ねてしまい、逆襲を受けた勝太郎は死亡した。冬眠を妨げられたヒグマは、飢えて札幌の市街地を駆け抜けたため、17日、札幌警察署警察吏の森長保が指揮を執る駆除隊が急遽編成された[2]。

明治初期の平岸村(現在の札幌市豊平区平岸)。切り拓かれかけた森の中に小屋が点在している。

同日、豊平川の川向こうに当たる平岸村(現在の札幌市豊平区平岸)で件のヒグマを発見し、追撃を開始する。しかしヒグマは月寒村(現在の豊平区月寒)、白石村(現在の札幌市白石区)と逃走。再度豊平川に向かうルートを取ったため、駆除隊も雪上に残る足跡を頼りに後を追う。そして再度豊平川を渡り、雁来(現在の札幌市東区東雁来)までは確認したが、猛吹雪のため見失ってしまった[2]。これらの地は現在でこそ一面の住宅街だが、当時は畑が拓かれ始めたばかりの大森林地帯だった。

第二の事件

犠牲になった堺一家の家屋は、俗に「拝み小屋」と呼ばれる形式の簡素な小屋だった

札幌区の北東に位置する丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)。地名の「おかだま」は、アイヌ語の「オッカイ・タㇺ・チャラパ」(男が刀を落としたところ)に由来する[4]。この地は後に伏籠川の自然堤防が育んだ良質な土壌を生かしたタマネギ栽培で名を成すことになるが、当時は古木が延々と連なる森林地帯が広がっていた。その中に細々と拝み小屋[注 2]を結ぶ数百人ほどの村民たちは、その多くが札幌区に売り出す木炭の製造で生計を立てていた。明治4年ころこの地に入植した堺倉吉(事件当時、44歳)と妻・リツ(事件当時、36歳)の夫婦もそのような開拓民だった[5]。リツはもともと南部の生まれで19歳の折に「蝦夷地」に渡って倉吉と結ばれるものの箱館戦争の混乱に巻き込まれ内地に戻ることはかなわず、結局、夫婦で丘珠に入植したのだった[6]。二人は周囲の村民同様に寒風舞い込む拝み小屋の生活に耐えつつ、炭を焼いては札幌区に売り出す生活に勤しむ。やがて夫妻には待望の長男・留吉が生まれ、貧しい生活にも燭光が灯りつつあった[注 3][2]。

17日深夜、円山から白石、そして雁来へと逃走を重ねた件のヒグマが、突如として堺一家の小屋を襲ったのである。異変を察知して起き出した倉吉は、筵の戸を掲げたところで熊の一撃を受けて昏倒。妻・リツは幼い留吉を抱いて咄嗟に逃げ出したものの、後頭部にヒグマの爪を受けてわが子を取り落してしまった。リツは頭皮をはぎ取られる重傷を受けつつ、伏籠川対岸の雇い人・石澤定吉[7]に助けを求めるが、その間にヒグマは雪原に投げ出された留吉を牙に掛けていた。結果として倉吉と留吉が食い殺され、リツと雇い人は重傷を負った[8][2]。

18日昼、件のヒグマは駆除隊によって付近で発見され、射殺された。駆除に功のあった佐々木直則、渋谷永貞、武田守約の3人には、日当50銭のほか特別手当として2円が支給された[9]。

被害者の性別と内訳

『札幌事件簿』はじめ従来に流布していた書籍の記述では、加害熊が丘珠村の堺一家を襲ったおりの死者、重傷者は「死亡:堺倉吉、留吉」「重傷:リツ、雇人(女性)」とされていた。だが近年、北海道公文書館『開拓使公文録』の『明治十一年 長官申届上申書録』より次の文章が発見された。

危難救援の者賞誉の儀上申

本年一月十八日午前三時、当札幌郡丘珠村平民、堺倉吉居小家へ猛熊乱入、倉吉並びに同人長男、留吉儀は即死、倉吉妻リツおよび雇人姓不詳酉蔵は重傷を受け翌十九日死去致し候ところ右乱入の際、倉吉雇い青森県下陸奥国三戸郡五戸馬喰町平民、石澤定吉、リツの危難を認め同人を背負い急場を避けしめ候段、奇特の儀につき明治七年第百号公達に照準し別紙の通り賞誉取り計らい候、この段上申仕り候なり 明治十一年二月二十二日

上記の文章によれば、丘珠村の惨事での被害者は「死亡:堺倉吉、留吉、雇人の酉蔵(男性)」「重傷:リツ、雇人の石澤定吉」で死者3名、重傷者2名になり、先の円山で死亡した蛭子勝太郎も加えれば死者4名、重傷者2名になる[10]。

解剖の顛末

加害ヒグマはオスの成獣で、体長は1.9mもあった。警察署の前でしばらく晒し者にしたのち札幌農学校に運び込まれ、教授の指導のもと学生たちの手で解剖された[9]。昭和8年(1933年)発行の『恵迪寮史』の記述によれば、その熊は全く脂肪がなかったという。おそらく冬眠に備えての食いだめができず、雪中では餌を求めることも叶わず、進退窮まった末に暴挙に及んだことは疑いない、と推察されている[11]。

当時、札幌農学校の第一期生として同席した大島正健は、晩年の昭和12年(1937年)に口述筆記させた回顧録『クラーク先生とその弟子たち』において、加害熊解剖の顛末を物語っていた[8][12]。

思わぬ材料に恵まれ歓喜の声をあげた学生たちは、ペンハロー指導教授のもとにさっそく解剖実習に取り掛かった。(中略)教授の目をかすめて二三のものがひそかに一塊の肉を切り取った。そして休憩時間を待ちかねて小使部屋に飛び込んだ。やがてその肉片が燃えさかる炭火の上にかざされた。そして醤油にひたす者、口に投げ込む者、我も我もと珍しい肉を噛みしめていたが、だれ言うとなく

「熊の肉は臭いなァ、恐ろしく堅いなァ」

という声がほとばしり出た。

定刻になって師の呼ぶ声に一同は何食わぬ顔をして解剖室に集り、手に手にメスをふるって内臓切開に取り掛かったが、元気のよい学生の一人が、いやにふくらんでいる大きな胃袋を力まかせに切り開いたら、ドロドロと流れ出した内容物、赤子の頭巾がある手がある。女房の引きむしられた髪の毛がある。悪臭芬々目を覆う惨状に、学生はワーッと叫んで飛びのいた。そして、土気色になった熊肉党は脱兎のごとく屋外に飛び出し、口に指を差し込み、目を白黒させてこわごわ味わった熊の肉を吐き出した。

後に訪ねてきた内田瀞[注 4]が

「あの肉は酸味があって堅かったのゥ」

とありし日を思い出して述懐していたが、事実何とも堅い肉で、口へ入れてみたが、私にはそれをのみ込んで胃の腑へ収める勇気は出なかった。

もう一人、解剖に参加した黒岩四方之進の回顧録が、大正15年(1926年)5月19日付の『小樽新聞』紙上に載せられている[13]。

熊公の大きな胃袋の中から出てきたものは、まず第一番に赤い布片で、次には縄付きのままの鮭の頭が飛び出し、その後からは長い頭髪のついている食われた主人の頭の一部や、赤児の両手や竹輪のように刻まれている腕の断片やら続々と露出して来た。

(中略)

その時黒岩さん午前中に剥製をおわって、その日の昼飯の折りにはその熊の肉を焼いてたらふく食べたという。

なお、解剖担当者の中には、農学校の2期生として入学した当時1年生だった新渡戸稲造もいた。

その後

『北海道巡幸屯田兵御覧』(高村真夫筆)。明治14年9月1日、北海道行幸で山鼻屯田兵村(現在の札幌市中央区山鼻)を視察する明治天皇。天皇は午前中に山鼻屯田兵村に行幸し、同日午後3時前に開拓博物館で当事件の加害熊はじめ陳列品を観覧した

このヒグマの剥製は開拓史博物館に仮保存された。そして事件から3年後の明治14年(1881年)9月1日、北海道行幸中の明治天皇の「天覧」に浴した[14]。昭和初期に記された『明治天皇御巡幸記』ではこの時の模様を「物産課長以下玄関前に奉迎、課長御先導、陳列品を天覧あらせらる。前年丘珠村にて民家に入り人を喰ひし熊の剥製は殊に共奉員等の注目を惹きしと云ふ」と記す[15][注 5]。剥製は北海道産最古のものとなっている[16]。その後、ヒグマの胃の内容物をアルコールに漬けて保存したもの[注 6]とともに、現在でも北海道大学植物園に保存されている[17][1]。事件の跡地は札幌市立丘珠小学校の敷地となった[17]。

夫と息子を失ったリツは長らく入院し、不憫に思った行政側は彼女が再婚するまで扶助していた。北海道博物館には、老境に至ったリツの写真が残されている[9][注 7]。この写真が撮影された明治43年(1910年)、札幌の人口は8万人に達していた[9]。

備考

当該事件が発生した地点の詳細は、札幌飛行場(丘珠空港)から徒歩5分程度の地点に現存している丘珠神社(北海道札幌市東区丘珠町183番地4にある神社)からさらに北北東の方角に徒歩15分程の位置である。


福岡大ワンゲル部事件(1970年)
福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件は、1970年(昭和45年)7月25日から27日にかけて北海道の日高山脈・カムイエクウチカウシ山で発生し、学生3人が犠牲となった国内最悪クラスの鳥獣害事件です。 [1, 2, 3]
事件の概要
  • 発生日時:1970年7月25日午後〜27日
  • 場所:北海道日高山脈カムイエクウチカウシ山(九ノ沢カール付近)
  • 被害者:福岡大学ワンダーフォーゲル同好会のパーティーの学生5人のうち、命を落とした3人
  • 加害個体:執拗にテントや人間を狙い続けた巨大な雄のヒグマ(通称・九ノ沢のヒグマ) [1, 2, 3, 4, 5]
経緯と特徴
  • 3日間にわたる執拗な襲撃:九ノ沢カールでテント設営中に1度目の遭遇・襲撃を受けて以降、3日間にわたり計6回も同じヒグマに執拗に追い回され、テントを破られ、仲間が次々と連れ去られました。 [1]
  • なぜ被害が拡大したか:当時は現代のような通信手段(携帯電話や無線機)がなく、ヒグマに対する知識や対処法(羆の執着心や異常行動への理解)も不足していました。初動で荷物を奪われたことや、逃走・救助要請のタイミングが分断されたことが悲劇を大きくしました。 [1]
  • 残された記録:犠牲となった学生が遺品に残したメモには、極限状態での恐怖や絶望、仲間を思いやる悲痛な言葉が記されており、のちの登山界や研究者に大きな教訓を残しました。 [1]
さらに知りたい場合は、以下のような点についてもお伝えできます。
  • 詳しい時系列と襲撃の経緯
  • ヒグマが執着した理由や背景
  • 現代の登山におけるクマ対策


石狩沼田幌新事件

石狩沼田幌新事件(いしかりぬまたほろしんじけん)は、大正12年(1923年)8月21日の深夜から8月24日にかけて、北海道雨竜郡沼田町の幌新地区で発生した、記録されたものとしては日本史上2番目[注釈 1]に大きな被害を出した熊害事件。
ヒグマが開拓民の一家や駆除に出向いた猟師を襲い、4名が死亡、4名の重傷者を出した。

事件の経緯

事件の現場となった石狩沼田の幌新地区は、留萌本線の旧恵比島駅(2023年に留萌本線の部分廃止に伴い廃駅)から北東へ4 - 8 kmほど離れた場所である。地名の「ほろしん」は、地区内を流れる雨竜川の支流・幌新太刀別川(ほろにたちべつがわ、アイヌ語で「湿地を流れる大きな川」を意味するポロ・ニタッ・ペツに由来)の前半部をとったものである[1]。

8月21日

大正12年(1923年)8月21日、沼田町内の恵比島地区で、太子講の祭が開催された。日ごろ娯楽も少ない開拓地ゆえ、余興で上演される浪花節や人情芝居を目当てに、近隣の村落から多くの人々が詰めかけた[2][3]。

最初の襲撃

村民を熱狂させた祭も午後11時半ごろにはお開きとなり、幌新地区の支線の沢や本通筋から祭りに参加していた一団[注釈 2]も、夜の山道を家路へと急いでいた。

被害者を襲ったものと同種のエゾヒグマ

一行が幌新本通りの沢に差し掛かったところ、小用のため50 mほど遅れて歩いていた林謙三郎(19) [注釈 3]が、突然現れた巨大なヒグマに背後から襲われた[2] [4]。
しかし、まだ若い彼は死力を尽くして暴れ、帯や着物を裂かれながらも何とか脱出に成功する。そして恐怖に怯むこともなく、前方を歩く一団に急を知らせた。
一方、先回りしたヒグマは一団の先頭部を歩いていた村田幸次郎(15)を一撃のもとに撲殺、幸次郎の兄・與四郎(17)には内臓に到達するほど重度の裂傷を負わせた。後年、親族の集まりで與四郎が語った録音テープによれば、「弟の幸次郎を殺害したヒグマは今度は母・ 村田ウメ(55)に背後から襲いかかった。そこで與四郎がマッチを擦って火を点けたところ、(闇の中に)クマの顔が見えた。その瞬間にガッと私(與四郎)に襲い掛かってきた」、との事である[5]。母子に襲い掛かったクマは、幸次郎の遺体を腹部から食い始めた[2]。

暗闇の念仏

恐怖とパニックに陥った一団は、そこから300 mほど離れた木造平屋建ての農家・持地乙松 宅に逃げ込み、屋根裏や押入れの中に身を隠し、囲炉裏にガンピ(シラカバの樹皮)を大量にくべて火を強めるなどしてヒグマに立ち向かう手はずを整える[2] [6]。
やがて30分ほど経過したころ、件のヒグマが幸次郎の内臓を食いつつ持地宅に現れ、ガラス窓から中をうかがい始めた。家人は座布団やざるなどを投げつけて追い払おうとしたところ、ヒグマは玄関に回り込もうとする。
村田兄弟の父親・村田三太郎(58)は入れるまいとして必死になって内側から戸を押さえていたが、ヒグマは三太郎ごと戸を押し倒し、屋内に侵入してきた[2] [6]。三太郎はとっさにスコップを構えて立ち向かったものの叩き伏せられ、重傷を負った。
ヒグマは囲炉裏で盛んに燃え上がる火を恐れることもなく踏み消し、部屋の隅で恐怖に震えていた母親・村田ウメ(55)[注釈 4]をくわえ上げると、そのまま家を出ていこうとする。三太郎は自らの深手も忘れ、半狂乱になってヒグマをスコップで打ち据えるが、意に介すこともなく向かいの山中へとウメを引きずっていく[2] [6]。
ウメが助けを求める「怖い」「痛い」という叫び声が2、3度響いたあと、かすかな念仏が何度も続けて聞こえてきたが、それも次第に遠ざかり、夜風に吹き消されてしまった[7]。與四郎の音声証言によると、「(やがてクマが母を)食いだした。ガリ、ガリ、という音が聞こえた。(母の)声が聞こえなくなった。(自分は)出ない声を振り絞って(母親に向かって叫ぼうとするが、)口から吸った息が(裂けた)横の腹から出る。グウグウと(鳴るだけで)苦しい一方」、という状況であった[8]。
與四郎の傷は深く、地元の医師に助からないと判断されたが、札幌の病院に運ばれ、奇跡的に一命を取り留めた[9][注釈 5][10]。

8月22日

妻子を奪われた三太郎はじめ、避難民らは心身ともに苦痛に苛まれ、焦燥に駆られるばかりだった。しかし銃の備えもない農家ゆえ、屋内に閉じこもってわが身を守る以外に打つ手はない。
むなしい思いの中で22日の夜が明けたところで、事情を知らない村民が持地宅のそばを偶然通りかかった。屋内の一団は大声で助けを求め、すでにヒグマが去ったことを聞きつけたうえで戸外へと出た。
近隣の藪の中で下半身をすべて食われたウメの遺体が見つかった[7]。

8月23日

山中に消えた狩人

22日のうちに、惨劇は沼田町全域に知れ渡った。
翌23日には、熊撃ち名人として名高い砂澤友太郎をはじめ雨竜村(現在の雨竜町)の伏古集落在住の3人のアイヌの狩人が応援に駆けつけた[11]。
そのうちの1人・長江政太郎(56)[注釈 6]は凶悪なヒグマの話を聞きつけて憤慨し、「そのような悪い熊は、ぜひとも自分が仕留めなければならない」と、周囲が止めるのも聞かず単身でヒグマ退治に赴いたものの、山中で数発の銃声を響かせたきり行方知れずとなった[7][11]。

8月24日

ヒグマの最期

24日、在郷軍人、消防団、青年団など総勢300人あまりの応援部隊が幌新地区に到着した。さらに、幌新、恵比島の集落民のうち60歳未満の男子が残らず出動し、村始まって以来のヒグマ討伐隊が結成された[7] [12]。
ところが、一行が山中に分け入ってまもなく加害ヒグマが現れ、討伐隊の最後尾にいた上野由松(57)が一撃で撲殺された。ヒグマは折笠徳治 にも重傷を負わせ、咆哮を上げつつ別の討伐隊メンバーに襲いかかろうとした。が、現役除隊まもない軍人がとっさに放った銃弾が命中。さらに鉄砲隊が一斉射撃を浴びせたことにより、凶悪なヒグマもついに倒された。
この現場のすぐそばで、23日に行方不明になっていた長江政太郎が、折られた銃と共に、頭部以外をすべて食い尽くされた状態の遺体として発見された[7] [12]。

ヒグマが討ち取られた時点で村田幸次郎、村田ウメ、長江政太郎、上野由松 の計4名が死亡し、林謙三郎、村田三太郎、村田與四郎、折笠徳治 の4名が重傷を負っていた。

加害クマは、体長2 m、体重200 kg(沼田町ふるさと資料館によれば340 kgの記録があるとも)の雄の成獣だった。解剖の結果、胃からは大きなざる一杯分にも及ぶ人骨と、未消化の人の指が発見された[7] [12]。

その後

このヒグマの毛皮は沼田町立幌新小学校に保存されていたが、1967年(昭和42年)に幌新小学校が廃校になったあとは幌新会館に移され、2025年現在は沼田町ふるさと資料館分館に展示されている[13]。また、重傷を負った林謙三郎は、その後一度も山に入らなかったという。

なお、事件の舞台である幌新太刀別川上流部では、その後浅野炭鉱と昭和炭鉱が次々と開発された。留萌港で貨物輸送を行っていた私鉄の留萌鉄道が、恵比島駅を起点とする「炭礦線」を開通させ、それに伴って山中に2千人以上の人口を有する小都市が生まれ、大いに栄えた。しかし1960年代末の炭鉱閉山とともにゴーストタウンと化し、現在では沼田ダム貯水池の底に沈んでいる[注釈 7]。

補足

21世紀の現在、沼田町は、北海道でも有数の米どころだが、明治の開拓以前は面積の8割を原生林に覆われ、まさにヒグマの天地だった。この環境の中で開拓民とヒグマの接触事故は頻々と発生し、「開拓小屋にクマが侵入し、収穫したてのトウキビ(トウモロコシ)を食われた」「収穫間近のトウキビを一晩で一反(10アール)分食われた」などの逸話には事欠かない[14]。

「石狩沼田幌新事件」以外の人身事故、家畜殺傷事件も相次ぎ、大正2年(1913年)には奔々地区(現在の更新3地区)で通学途中の小学生が体重200 kgのヒグマに襲われ、内臓をすべて食い尽くされた[15]。同じ頃、安達地区(現在の共成3地区)では農作業中の若い女性が襲われて瀕死の重傷を負った[16]。

さらに昭和30年代に至っても、共成、東予、更新、真布、さらに幌新など町内各所にヒグマが出没し、農作物や家畜に被害を与えている[17]。

事件の原因

夏祭り帰りの一行が最初にヒグマに襲われた地点には、斃死した馬の死体が埋められていた。加害ヒグマは数日前よりこの死体を食べており、偶然現れた一行を「大事な餌を奪う敵」と見なし、排除に及んだのが事件の発端だと思われる[3]。



三毛別羆事件
ヒグマ(羆、緋熊、樋熊、学名:Ursus arctos[3])は、クマ科に属する哺乳類である。ホッキョクグマと並びクマ科では最大の体長とされる。また、エゾヒグマは現代の日本列島に生息する最大の陸棲哺乳類であり、現代でも同列島に生息している数少ないメガファウナの一種である。また、ロシアやフィンランドの国獣である。
学名
学名「Ursus arctos」の「Ursus」はラテン語でクマを意味し、「arctos」もギリシャ語でクマを意味する「ἄρκτος」をラテン文字化したものである。
分布
ヨーロッパからアジアにかけてのユーラシア大陸と北アメリカ大陸、北海道に幅広く生息している。その生息地は温帯からツンドラ気候の地域(北極海沿岸など)にまで及ぶ。現存するクマ属の中では最も広く分布する。亜寒帯・冷温帯などに生息するイメージが強いとされ実際にその傾向があるが、生息域は過去には地中海沿岸やメキシコ湾岸やなど温暖な地域にまで及んでいて、人間による開発や乱獲によって減少し、人口密度の低い北方に生息するようになったとされる。個体群や亜種の絶滅は過去150年間に集中し、アラスカを除く北米大陸と西欧で著しい。北アフリカに分布していたアトラスヒグマ(英語版)が1870年に絶滅したことで、クマ科がアフリカ大陸から消失している。日本列島では後期更新世までは本州にも生息していた[3]。
分類 亜種→詳細は「en:Subspecies of brown bear」を参照
基亜種はユーラシアヒグマ(英語版) (U. a. arctos)。ヨーロッパヒグマともいう。ヨーロッパから西シベリアにかけて生息するが、主要な生息域はロシアである。イギリスで絶滅など、ロシア以外の多くの国では個体数が激減している。他に、
北アメリカ北西部に生息するハイイログマ(グリズリー、U. a. horribilis)
アラスカに生息するコディアックヒグマ(Kodiac Bear U. a. middendorffi)
北海道に生息するエゾヒグマ(U. a. yesoensis, U. a. ferox Temminck, 1844, or U. a. lasiotus Gray, 1867)
ヒマラヤ山脈周辺に生息しているヒマラヤヒグマ(英語版)など、計15程度の亜種がある。
絶滅亜種としては、メキシコハイイログマ(U. a. nelsoni)、カリフォルニアハイイログマ(U. a. californicus)、19世紀のアフリカ大陸北部の地中海沿いのアトラス山脈周辺に生息したアトラスヒグマ(U. a. crowtheri)が存在していた。なお、20世紀初頭に最大級の亜種であるカムチャッカオオヒグマ(U. a. piscator)が絶滅したとされていたが、近年はカムチャッカヒグマ(英語版)(U. a. beringianus)のシノニムの一つとして扱われている[4]。
エゾヒグマ→詳細は「エゾヒグマ」を参照
知床半島に生息するエゾヒグマ。
日本列島ではエゾヒグマが北海道に生息している。
2009年10月には国後島で白い個体の撮影に成功しており、同島に生息する推定300頭の1割が白色個体とみられ引き続き調査が行われている。2012年の夏には北海道西興部村でもアルビノと見られる個体が目撃されている[7]。
雑種→詳細は「ハイイログマとホッキョクグマの雑種」を参照
ホッキョクグマはヒグマの近縁種であり、生殖的隔離が存在しない。通常北極圏ではヒグマは陸、ホッキョクグマは海と生息域がことなり混血の機会はないが、自然環境でも両者の混血の発生事例が報告されており、地球温暖化の影響が懸念されている。
形態
白い体毛を持つエゾヒグマ(のぼりべつクマ牧場)。俗に「袈裟掛け」(けさがけ)と呼ばれる。
道路を渡る仔熊(北海道)。

オスの成獣で体長2.0 - 2.8mで体重は250 - 500kg程度に達する。メスは一回り小さく体長1.8 - 2.2mで体重は100-300kgほど。がっしりとした頑丈な体格を持ち、頭骨が大きく肩も瘤のように盛り上がっている。
個体群によって体毛の毛色に差異が見られる場合があり、たとえば千島列島には部分的に白や銀に変色した体毛を持つ個体が散見され、ごく稀に北海道でもその様な事例がある[8][9]。この現象の厳密な原因は不明だが、各個体群が受け継いでいる染色体の中の遺伝子座が作用している可能性がある[9]。また、千島列島における白や銀の体毛を持つ個体は、通常の個体よりも狂暴性が低い傾向があるという意見も存在する[9]。
ヒグマは栄養状態によって生じる個体差が顕著で、溯上するサケ・マス類を豊富に食べられる環境にいるヒグマは大きい。中でも有名なのが、アラスカ沿岸のコディアック島、南西部のカトマイ国立公園と、極東ロシアのカムチャツカ半島に生息するヒグマで、共に500kg以上の個体が記録されている。野生のヒグマで最大の記録はコディアック島で捕らえられた個体で1,134kg(2,500ポンド)以上[10][要検証]。エゾヒグマでも、1980年に羽幌町で射殺された体重450kgの通称「北海太郎」や、1982年に古多糠の牧場で子牛3頭を襲った500kgの雄(6歳)、2007年11月にえりも町の猿留川さけ・ます孵化場の箱罠にかかった推定年齢17歳・520kgのオスなど大型の個体もおり、近年大型化しているとの指摘もある[要出典]。このます孵化場の箱罠では、300kgの個体も捕獲されている。三毛別羆事件を引き起こした通称「袈裟懸け」は340kgであった[11]。
生態
険しい山岳地帯も生息環境に含まれる。
脂肪を蓄えて2ヵ月間で肥大化した個体。写真は2019年の「ファット・ベア・ウィーク(英語版)」の優勝個体。
針葉樹林を中心とした森林地帯に生息する。
食性は雑食だが、同じクマ科のツキノワグマに比べると肉食の傾向が大きい。シカやイノシシ、ネズミなどの大小哺乳類、サケやマスなどの魚類、果実などを主に食べる。トラやオオカミなどの他の肉食獣が殺した獲物を盗むことも近年の研究で明らかとなった。家畜はヒグマにとって格好の獲物ではあり襲撃も増加している[12]。まれに人を捕食することもあり、一度でも人を食べたヒグマは人間を襲う傾向があるため、極めて危険である[13]。また自分が捕獲した獲物に対して強い執着心を示すため、ヒグマに奪われた物を取り返す行為は危険である。地上を走行する時の最高時速は48kmである[14]。
川を遡上するサケを待ち伏せして捕食することも有名である。ただし、ヒグマの栄養源のうちサケが占める割合は北米沿岸部の個体群では栄養源全体の30%以上であるのに対し、知床半島に生息するヒグマでは栄養源全体の5%にすぎなくなっているとされ、遡上減による生態系への影響が懸念されている[17]。
冬季には巣穴で冬眠をする。冬眠中には脈拍、呼吸数が大幅に減少する。この間(通常2月)に出産するが、出産したばかりの子供の体は非常に小さい。冬眠しない個体もあり、人を襲う場合もある。
成獣にはトラが天敵となる。シベリアでは生息域が重なるためトラとは敵対関係にある。 トラとヒグマが遭遇し対立した44の事例の内、これらの22例でヒグマが殺され、12例でトラが殺され、10例で互いに生き残り別れた[18]。大きなオスのヒグマは、メスのトラや小型のトラには勝ち目があるが、オスのトラへの勝ち目は薄い[19]。ロシアから中国の太平溝自然保護区にトラが入って来た時、この地域でのヒグマの出没頻度が著しく減少したという報告がある[20]。
ヒグマはホッキョクグマに対しては優位である。 ボーフォート海岸沿いの地域ではヒグマとホッキョクグマの生息域が重なっているが、 ヒグマとホッキョクグマが獲物を争う観測された137の事例ではうち124回はホッキョクグマの逃走で終わった[21]。
イノシシ、ロバ等の家畜、ワピチ、ヘラジカ、アメリカバイソン等の中・大型の動物はヒグマの成獣を殺すことがあり、健康で成熟した大型種(ワピチの雄、ヘラジカ、アメリカバイソン)はヒグマの捕食対象になることは無い]。
人間との関わり
→「熊害」も参照

日本
アイヌの祭壇「ヌサ」。熊の頭骨が祀られている。明治時代後期。
ヒグマの出没に注意を喚起する看板(札幌市)
『和漢三才図会』に描かれたヒグマ(右頁)

ヒグマの毛皮は古くから交易品であり、『日本書紀』斉明5年(659年)条には、次のような記述が見られる。「来日した高句麗使人がヒグマの皮一枚を綿60斤で売ろうとしたが、日本側の市司(いちのつかさ)は笑って相手にしなかった。その後、使人は、高麗画師子麻呂の家を訪ねるが、官から借りたヒグマの皮70枚を敷き詰められて接待を受けたため、高値で売ろうとした事を恥じ、不思議に思った」。7世紀において、列島北方との交流をうかがわせるものであり、半島からの交易物による文化的優位性に対抗した話とみられる[28]。

アイヌは、ヒグマやエゾタヌキなど狩猟の対象となる生き物を、「カムイが人間のために肉と毛皮を土産に持ち、この世に現れた姿」と解釈していた。その中でも特にヒグマをキムンカムイ(山の神)として崇め、猟で捕えた際は「自分を選んでたずねてきた」ことを感謝して祈りを捧げ、解体した後は頭骨にイナウを飾り付けて祀った。さらに春先の穴熊狩りで小熊を捕獲した際は、コタン(村)に連れ帰って一年間大切に育てることで「人間界の素晴らしさ」を伝え、毎秋にはイオマンテ(熊送り)と呼ばれる祭を催し、ヒグマの仔を殺すことで天に返した。人間に大切にもてなされた熊の霊に天上界で「人間界の素晴らしさ」を広めてもらい、それによって更に多くのカムイが人間界へ「肉と毛皮の土産」を携えて訪問することを期待するのである。人間を傷つけたヒグマはウェンカムイ(悪い神)とみなされる。熊狩りの際に重傷を負わされた場合、そのヒグマの肉や毛皮を利用はするものの、頭骨を祀ることはしない。人間を食い殺したヒグマを捕えた場合は、その場で切り刻んで放置し、腐り果てるにまかせる。アイヌの伝承において、エゾタヌキはヒグマの巣の近くに巣を作るが、なぜか捕食されないことから、ユーカラではヒグマの世話役として描かれる[29][30][31]。

現代ではヒグマはキタキツネとともに、北海道観光の象徴的なマスコットとされ、アイヌが儀礼用の道具に彫るものから木彫りの熊まで幅広い商品がある。登別温泉などにあるクマ牧場のように観光用のヒグマ飼育施設まで存在する。そこではヒグマに芸を仕込んでいることもある。

同時に、野生ヒグマによる人や農漁業への被害、鉄道線路への侵入や列車との衝突事故も深刻であり、2021年度の死傷者数は12月時点で12人と、北海道庁が1962年度に集計を開始して以来の記録であった8人(1964年度)を上回り最悪となった[32]。駆除の優先度も、エゾシカなどに比べて高い。その被害も農作物への被害(夕張メロンなど)から、家畜、畜産物、人的被害にまで及ぶ。明治時代には北海道で多数の人間が襲撃されており、苫前三毛別羆事件のように小規模な天災に匹敵する死者(7人死亡、3人重傷)を出すことすらある。また近年になって増加傾向にあり、遭遇事故だけでも年々増加してきている[33][34][35]。

世界遺産となった知床半島において、観光客やカメラマンがヒグマを撮影しに多数訪れるようになり、ヒグマを至近距離から多人数で取り囲んだりするなどの行為が報告されるようになり、環境省や学識経験者などは、いずれは人身事故が起こりかねないとして、こうした危険行為を慎むよう警告している[36]。

日本に限ったことではないが、人間が山中にごみをポイ捨てしたり、あまつさえ(攻撃性をあまり示さない)個体に餌を与えたりなどすることで、クマがヒトの食物の味を学習し、人に興味を持ったり人里に出ようとする事案が後を絶たない。保護団体ではエアソフトガン等で痛めつけてヒトの恐ろしさを学習させるなどして、山に帰るよう促しているが、それでも治らない個体は、自治体がハンター団体に依頼して殺処分される。そのような個体はいずれヒトを襲うようになる恐れがあるからである。北海道は道内のヒグマ生息数(平成24年度)を10,600頭±6,700頭と推定している[37]。OSO18と呼ばれる個体は2019年から数年にわたって放牧された牛を捕食している[38]。「山で一番怖いもの」「山の主人」との意味で、北海道では野性のヒグマは「山親爺」とも呼ばれる[39]。

2022年4月、北海道庁は新たにヒグマ対策室を新設[40]。同5月、ヒグマによる被害や出没状況に応じて「警報」や「注意報」を発出、住民に注意を呼びかける制度を始めた[41]。2025年7月12日、福島町で新聞配達員の男性がヒグマに襲われて死亡した事故を受け、同町全域で強い警戒を促す「ヒグマ警報」が発出された。2022年5月に注意報や警報の制度ができて以来初めて[42]。7月18日に同町で駆除されたヒグマ1頭が12日に新聞配達員の男性を襲い死亡させたヒグマと同一個体であると判明したため、19日に「警報」は解除されたが、目撃情報などから別の1頭が付近にいる可能性もまだ否定はできないとして「注意報」が出され注意が呼びかけられた[43]。

2025年9月施行の改正鳥獣保護管理法においては、市町村の判断で市街地でも特例的に猟銃が使えるようになる(「緊急銃猟制度」[注 2][45])。従来は住宅密集地での猟銃の発砲は原則として禁止されており、ハンターは警察官の許可がなければ発砲できず、クマ被害への迅速な対応において課題とされていた[44]。改正鳥獣保護管理法の施行を前にした8月28日、北海道猟友会は、人身事故が起きた場合のハンターへの補償が不十分なことを理由として、ハンターが自治体の発砲要請に応じないことを容認する方針を各支部に通知することを明らかにした[46]。10月24日、札幌市西区西野の公園でヒグマ2頭に対する緊急銃猟が行われ、ヒグマに対する初めての緊急銃猟の実施となった[47]。

北米

北米先住民にとって、ヒグマをはじめとするクマは畏敬と信仰の対象であった。プエブロ・インディアンの焼き物や宝飾品、ズニ族のフェティッシュと呼ばれる動物をかたどったお守りには、クマのモチーフが好んで用いられる。

北米では、絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律をはじめとする保護法の発効以来ヒグマの個体群数は回復の傾向にあるが、放牧業を営む畜農家との軋轢、拡大する住宅地、国立公園などでの観光客との接触、ハンターとの接触、交通事故など、人とヒグマとの共存は容易ではない。

ハイイログマの個体群は、アメリカ合衆国では絶滅危惧特別個体群(Threatened Distinct Population Segment)、カナダでは絶滅危機特別個体群(Endangered Distinct Population Segment)に指定され、連邦法と州法で保護されている。

  • U. a. isabellinus

ワシントン条約附属書I類[1]

ヒグマが登場する作品

映画

ドラマ

小説

エッセイ

漫画

その他

  • 舞台公演『羆嵐(くまあらし)』倉本聰 脚本。1986年
  • 書籍『慟哭の谷―The devil’s valley』木村盛武著 共同文化社
三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)は、1915年(大正4年)12月9日から12月14日までにかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢で発生した熊害事件。エゾヒグマが開拓民の集落を二度にわたって襲撃し、死者7人・負傷者3人を出した後、猟師の山本兵吉により射殺された。三毛別事件(さんけべつじけん)や六線沢熊害事件(ろくせんさわゆうがいじけん)、苫前羆事件(とままえひぐまじけん)、苫前三毛別事件(とままえさんけべつじけん)とも呼ばれ[1]、日本史上最悪の熊害と評されることもある[2]。

事件の経緯
三毛別羆事件の位置(北海道内)
三毛別羆事件
三毛別ヒグマ事件の現場
再現された開拓民の小屋(札幌市の「北海道開拓の村」内)
地名の「三毛別」は、アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サンケ・ペツ」に由来する[3][4][注釈 1]。

クマの出現

 
六線沢と呼ばれていた開拓集落は現在のルペシュペナイ川上流域にある。苫前の中心部から30キロメートルほど南東で、15軒の家があった[9]。
1915年(大正4年)11月初旬、池田富蔵家にヒグマが現れ、軒下のトウキビが被害に遭った。同月20日未明にも再びヒグマが現れ、被害はなかったものの、富蔵はクマの脅威を身近に感じ始め、何か対策を打たなければならないと不安を募らせていた[10]。30日、富蔵はマタギ2人に張り込みを頼んだ。ヒグマが現れたが、傷を負わせたのみで取り逃がした[11]。

事件発生
第一の襲撃事件
12月9日、太田三郎家に残っていた内縁の妻阿部マユと、養子に迎える予定だった蓮見幹雄(6歳)がヒグマに襲われた。これは一連の襲撃事件のうち、最初の襲撃であった。
三郎は山での作業のため不在だったが、帰宅時に囲炉裏に座っている幹雄を発見した。三郎は、幹雄が寝ているのだと思い近づいてみたところ、喉と側頭部に親指大の穴が開いており、既に息絶えていた[12]。さらにヒグマはマユの体を引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた[13] [14]。加害クマを追跡するにはすでにもう遅い時間で、日没が迫る中、住民たちに打つ手はなかった[14]。
当時の開拓村の家(再現)
北海道開拓の村に再現された開拓小屋の内部
事件直前の明景家写真

翌日の12月10日9時頃、捜索隊が結成された。あまりにも近い場所からクマが出てきたため、驚いた一行は慌てふためいて銃口を向けたが、手入れが行き届いておらず、発砲できたのは1丁のみであった[15]。
銃声を聞いてヒグマが逃走した後、男たちがヒグマのいた付近を確認すると、トドマツの根元に黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見し、収容した[15]。このヒグマは人間の肉の味を覚えた。マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動であった。

第二の襲撃事件 
同日夜、太田宅で幹雄とマユの通夜が行われたが、村民はヒグマの襲来に怯え、参列したのは六線沢から3人と三毛別から2人、幹雄の両親とその知人、喪主の太田三郎のあわせて9人だけだった[15]。
20時半ごろ、太田宅にヒグマが乱入してきた。ランプが消え、棺桶が打ち返されて遺体は散らばり、恐怖にかられた参列者たちは梁に上ったり屋外に飛び出したりと、右往左往の大混乱となった[16]。幹雄の父親である蓮見嘉七はいち早く妻のチセを踏み台にして屋根裏の梁に駆け上がり、踏み倒されたチセは参列者の堀口清作に助けられてようやく天井の梁に逃れた。嘉七は死ぬまでチセに頭が上がらなかったという。300 m先の家で食事をしていた50人が駆けつけたが、ヒグマはこの時には姿を消していた。犠牲者が出なかったことに安堵した一同は、太田宅から500 mほど下流にある明景家に退避しようと下流へ向かった[17]。
そのころ明景家には、戸主・明景安太郎(40歳)、その妻・明景ヤヨ(34歳)、長男・力蔵(10歳)、次男・勇次郎(8歳)、長女・ヒサノ(6歳)、三男・金蔵(3歳)、四男・梅吉(1歳)の7人と、事件を通報するため30kmほど離れた苫前村役場や19kmほど離れた古丹別巡査駐在所に向かっていた斉藤石五郎(42歳)[18]の妻で妊婦の斉藤タケ(34歳)、三男・巌(6歳)、四男・春義(3歳)の3人、そして事件のあった太田宅の寄宿人で男手として明景宅に身を寄せていた長松要吉(59歳)の合計11人(タケの胎児を含めると12人)がいた[16]。
三毛別ヒグマ事件 被害状況の展示
(苫前町立郷土資料館)


太田家からヒグマが消えて20分と経たない[16]20時50分ごろ、激しい物音と地響きを立てながら、窓を突き破って黒い塊が侵入してきた。ヤヨはその塊に「誰だ」と呼びかけたが、それはヒグマであった。混乱の中で囲炉裏とランプの火が消え、ヒグマは暗闇の中で人々に次々と襲いかかった[19]。
ヤヨと彼女に背負われていた梅吉はクマに噛まれて負傷するも、クマは逃げる要吉に気を取られたため難を逃れ、外に逃れた。一方で追われた要吉は牙を腰のあたりに受けて重傷を負った[20]。さらにヒグマは居間にいた金蔵と春義を殺害、巌に噛みつき重傷を負わせる。野菜置き場に隠れていたタケは気づいたヒグマによって居間に引きずり出され、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたがやがて意識を失い、上半身から食われて殺害された[21]。
激しい物音と絶叫を聞いて駆けつけた村の男たちは、負傷したヤヨに助けを求められた。「家を焼き払う」「一斉銃撃をする」などの案も出たが、中に生存者がいることを案じたヤヨの反対で止められた。生存者を救出したうえで家を取り囲み鉄砲を空に向かって放つと、ヒグマは玄関から躍り出て男たちの前に現れ、彼らが撃ちあぐねているうちに裏山の方へと姿を消した[21]。男たちが家の中に入って様子を確認したところ、殺害されたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという(後に死亡)[22][20]。
結果的にこの日の襲撃では、タケ、金蔵、巌、春義、タケの胎児の5人が殺害され、ヤヨ、梅吉、要吉の3人が重傷を負った[23]。力蔵は雑穀俵の後ろに隠れ生還、ヒサノは失神し居間で倒れていたが、同じく生還した[22]。勇次郎は、母・ヤヨや弟・梅吉が重傷を負いながらも共に脱出し、奇跡的に無傷だった[23]。
この夜の襲撃を受けて、六線沢集落の全住民は三毛別にある三毛別分教場(後に三渓小学校になるが廃校)へ避難することになり、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。巌は母・タケの惨死を知る術もないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めつつ20分後に息絶えたという[24]。

駆除に至る経緯
討伐隊の組織
12月12日、斎藤石五郎から通報を受けた北海道庁警察部(現在の北海道警察)は、管轄の羽幌分署長の菅貢に討伐隊の組織を指示、本部は三毛別地区長の大川興三吉宅に置かれた[22]。しかし、林野に上手く紛れるヒグマをすぐに発見することはできなかった[22]。
ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性があり、これを利用してヒグマをおびき寄せる策が提案され、隊長の菅はこの案を採用し、遺族と住民に説明した[22]。こうして、明景宅に残された犠牲者の遺体を「餌」にしてヒグマをおびき寄せるという作戦が採用された[25]。作戦はただちに実行されたが、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家の周囲を巡り、森へ引き返していった[25]。その後太田宅に3度目の侵入を企てたが、結局射殺することはできなかった[25]。
翌13日、陸軍歩兵第28連隊の将兵30人が出動した。一説にはこの日は出動せず、14日までにヒグマが討伐されなければ出動を要請することになったともいわれる[26]が、陸軍のいた旭川から六線沢までは当時数日かかったため、しばらくは警察と住民のみで集落を守らなければならなかった[27]。同日には住民が避難して無人になっていた六線沢の8軒がヒグマに侵入される被害に遭い、猟師の山本兵吉(当時57歳)がそのうち1軒にヒグマが侵入するのを目撃したが、射殺には至らなかった[25]。
20時ごろ、三毛別と六線沢の境界にある氷橋(現在の射止橋)で警備に就いていた1人が、対岸に6株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかもかすかに動いていることを不審に感じた[25]。菅はその方向に呼び掛けたところ返事がなかったため熊だと判断、菅の命令によって撃ち手が対岸や橋の上から銃を放つと怪しい影は動き出し、闇に紛れて姿を消した[28]。

事件終息


熊に傷を負わせた翌朝、足跡と血痕が発見された。けがを負っているなら動きが鈍るであろうと判断した菅は、急ぎ討伐隊を足跡が続く山の方角へ差し向ける決定を下した[28]。一方、前日にヒグマの姿を目撃していた山本は、討伐隊の一行とは別行動で山に入った[29]。
山本は討伐隊より先に山を登り、ヒグマを発見した。ヒグマは討伐隊の方向に意識を向けており、山本には気づいていなかった。20 mという至近距離まで接近した山本はハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えて[28]背後から発砲し、心臓付近に命中させた。しかしヒグマは怯むことなく立ち上がり、山本を睨みつけた。山本は油断なく2発目を発砲し、ヒグマの頭部を貫通。10時、一連の事件を引き起こしたヒグマは絶命し、事件は終息した[30][31]。
12日からの3日間で投入された討伐隊員は官民合わせて延べ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼった[32]。ヒグマの死骸は住民たちによってそりで下ろされた。すると、にわかに空が曇り雪が降り始め[32]、事件発生からこの3日間は晴天が続いていたが、この雪は激しい吹雪に変わり[2- 1]そりを引く一行を激しく打ちつけた。この天候急変を村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ[33]。
集落に下ろされたヒグマは三毛別分教場で解剖され、胃から人肉や衣服などが発見された[34]。さらに、解剖を見物しに来た人々が「このクマは太田宅を襲撃する数日前に雨竜、旭川付近、天塩で3人の女性を殺害し食害に及んだクマである」と次々に証言、胃の中からは実際に彼女らが身に着けていたとされる衣服の切れ端などが見つかり、その証言が裏づけられることとなった[35][注釈 2]。その後、ヒグマの毛皮や頭蓋骨などはそれぞれ人の手に渡った後に、現在は行方不明になっている[37]。
事件の記録
この事件は人々の記憶から消えた。それは、1878年(明治11年)1月11日-12日にヒグマが3人を殺害した札幌丘珠事件[38]の記録が詳細に残されたことが影響している。高倉新一郎も著作でこの事件を大きく取り上げる一方で、三毛別羆事件は補足的な採録にとどまり、被災の詳細などにも間違いが見られる[39][40]。
1961年(昭和36年)当時、古丹別営林署の林務官として苫前町内に勤務していた木村盛武が、「世界に類を見ない大事件が埋没してしまうのは学術的にも良くない」と考え、30数人の関係者から証言の聞き取りを行った[41]。木村が調査を行うまで、極寒の僻地で起こったことなどから発生当時の新聞報道も不正確な記述が多く、当事件に関する正確な記録は残っていなかった[41]。事件発生から50年後の1965年(昭和40年) 、証言をまとめた『獣害史最大の惨劇苫前羆事件』を旭川営林局誌『寒帯林』で発表[41][42]、 1994年(平成6年)には『慟哭の谷 戦慄のドキュメント 苫前三毛別の人食い熊』として書籍化された[43]。