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主な経歴と業績
星野道夫さんについて、さらに知りたい情報はありますか?
知りたい内容があれば教えてください。
札幌丘珠事件 札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)とは、1878年(明治11年)1月11日から1月18日にかけて北海道の石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)で発生した熊害事件。 冬眠から目を覚ましたエゾヒグマが猟師や開拓民の夫婦を襲い、死者3名、重傷者2名[1][2]を出した[注 1]。記録されたものとしては日本史上4番目に大きな被害となった熊害事件である[3]。 事件の経緯事件当時の札幌は和人の定住者が現れてから20年あまり、市街地の整備や農地の開墾は急ピッチで進められていたものの、市域を少し出れば原始そのままの大森林や草原に覆われていた。人口は、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」で3,000人、後に札幌市に組み込まれることになる周辺の農村すべての人口を合計しても、8,000人に満たなかった[2]。 第一の事件1878年(明治11年)1月11日、爾志通(現在の札幌市中央区南2条)在住の猟師・蛭子勝太郎[2]が郊外の円山山中で、冬眠中のヒグマを発見した。早速狩ろうと試みたものの撃ち損ねてしまい、逆襲を受けた勝太郎は死亡した。冬眠を妨げられたヒグマは、飢えて札幌の市街地を駆け抜けたため、17日、札幌警察署警察吏の森長保が指揮を執る駆除隊が急遽編成された[2]。 同日、豊平川の川向こうに当たる平岸村(現在の札幌市豊平区平岸)で件のヒグマを発見し、追撃を開始する。しかしヒグマは月寒村(現在の豊平区月寒)、白石村(現在の札幌市白石区)と逃走。再度豊平川に向かうルートを取ったため、駆除隊も雪上に残る足跡を頼りに後を追う。そして再度豊平川を渡り、雁来(現在の札幌市東区東雁来)までは確認したが、猛吹雪のため見失ってしまった[2]。これらの地は現在でこそ一面の住宅街だが、当時は畑が拓かれ始めたばかりの大森林地帯だった。 第二の事件札幌区の北東に位置する丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)。地名の「おかだま」は、アイヌ語の「オッカイ・タㇺ・チャラパ」(男が刀を落としたところ)に由来する[4]。この地は後に伏籠川の自然堤防が育んだ良質な土壌を生かしたタマネギ栽培で名を成すことになるが、当時は古木が延々と連なる森林地帯が広がっていた。その中に細々と拝み小屋[注 2]を結ぶ数百人ほどの村民たちは、その多くが札幌区に売り出す木炭の製造で生計を立てていた。明治4年ころこの地に入植した堺倉吉(事件当時、44歳)と妻・リツ(事件当時、36歳)の夫婦もそのような開拓民だった[5]。リツはもともと南部の生まれで19歳の折に「蝦夷地」に渡って倉吉と結ばれるものの箱館戦争の混乱に巻き込まれ内地に戻ることはかなわず、結局、夫婦で丘珠に入植したのだった[6]。二人は周囲の村民同様に寒風舞い込む拝み小屋の生活に耐えつつ、炭を焼いては札幌区に売り出す生活に勤しむ。やがて夫妻には待望の長男・留吉が生まれ、貧しい生活にも燭光が灯りつつあった[注 3][2]。 17日深夜、円山から白石、そして雁来へと逃走を重ねた件のヒグマが、突如として堺一家の小屋を襲ったのである。異変を察知して起き出した倉吉は、筵の戸を掲げたところで熊の一撃を受けて昏倒。妻・リツは幼い留吉を抱いて咄嗟に逃げ出したものの、後頭部にヒグマの爪を受けてわが子を取り落してしまった。リツは頭皮をはぎ取られる重傷を受けつつ、伏籠川対岸の雇い人・石澤定吉[7]に助けを求めるが、その間にヒグマは雪原に投げ出された留吉を牙に掛けていた。結果として倉吉と留吉が食い殺され、リツと雇い人は重傷を負った[8][2]。 18日昼、件のヒグマは駆除隊によって付近で発見され、射殺された。駆除に功のあった佐々木直則、渋谷永貞、武田守約の3人には、日当50銭のほか特別手当として2円が支給された[9]。 被害者の性別と内訳『札幌事件簿』はじめ従来に流布していた書籍の記述では、加害熊が丘珠村の堺一家を襲ったおりの死者、重傷者は「死亡:堺倉吉、留吉」「重傷:リツ、雇人(女性)」とされていた。だが近年、北海道公文書館『開拓使公文録』の『明治十一年 長官申届上申書録』より次の文章が発見された。 上記の文章によれば、丘珠村の惨事での被害者は「死亡:堺倉吉、留吉、雇人の酉蔵(男性)」「重傷:リツ、雇人の石澤定吉」で死者3名、重傷者2名になり、先の円山で死亡した蛭子勝太郎も加えれば死者4名、重傷者2名になる[10]。 解剖の顛末加害ヒグマはオスの成獣で、体長は1.9mもあった。警察署の前でしばらく晒し者にしたのち札幌農学校に運び込まれ、教授の指導のもと学生たちの手で解剖された[9]。昭和8年(1933年)発行の『恵迪寮史』の記述によれば、その熊は全く脂肪がなかったという。おそらく冬眠に備えての食いだめができず、雪中では餌を求めることも叶わず、進退窮まった末に暴挙に及んだことは疑いない、と推察されている[11]。 当時、札幌農学校の第一期生として同席した大島正健は、晩年の昭和12年(1937年)に口述筆記させた回顧録『クラーク先生とその弟子たち』において、加害熊解剖の顛末を物語っていた[8][12]。
もう一人、解剖に参加した黒岩四方之進の回顧録が、大正15年(1926年)5月19日付の『小樽新聞』紙上に載せられている[13]。 なお、解剖担当者の中には、農学校の2期生として入学した当時1年生だった新渡戸稲造もいた。 その後このヒグマの剥製は開拓史博物館に仮保存された。そして事件から3年後の明治14年(1881年)9月1日、北海道行幸中の明治天皇の「天覧」に浴した[14]。昭和初期に記された『明治天皇御巡幸記』ではこの時の模様を「物産課長以下玄関前に奉迎、課長御先導、陳列品を天覧あらせらる。前年丘珠村にて民家に入り人を喰ひし熊の剥製は殊に共奉員等の注目を惹きしと云ふ」と記す[15][注 5]。剥製は北海道産最古のものとなっている[16]。その後、ヒグマの胃の内容物をアルコールに漬けて保存したもの[注 6]とともに、現在でも北海道大学植物園に保存されている[17][1]。事件の跡地は札幌市立丘珠小学校の敷地となった[17]。 夫と息子を失ったリツは長らく入院し、不憫に思った行政側は彼女が再婚するまで扶助していた。北海道博物館には、老境に至ったリツの写真が残されている[9][注 7]。この写真が撮影された明治43年(1910年)、札幌の人口は8万人に達していた[9]。 備考当該事件が発生した地点の詳細は、札幌飛行場(丘珠空港)から徒歩5分程度の地点に現存している丘珠神社(北海道札幌市東区丘珠町183番地4にある神社)からさらに北北東の方角に徒歩15分程の位置である。 福岡大ワンゲル部事件(1970年) 福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件は、1970年(昭和45年)7月25日から27日にかけて北海道の日高山脈・カムイエクウチカウシ山で発生し、学生3人が犠牲となった国内最悪クラスの鳥獣害事件です。 [1, 2, 3]
事件の概要
経緯と特徴
さらに知りたい場合は、以下のような点についてもお伝えできます。
石狩沼田幌新事件 石狩沼田幌新事件(いしかりぬまたほろしんじけん)は、大正12年(1923年)8月21日の深夜から8月24日にかけて、北海道雨竜郡沼田町の幌新地区で発生した、記録されたものとしては日本史上2番目[注釈 1]に大きな被害を出した熊害事件。 事件の経緯事件の現場となった石狩沼田の幌新地区は、留萌本線の旧恵比島駅(2023年に留萌本線の部分廃止に伴い廃駅)から北東へ4 - 8 kmほど離れた場所である。地名の「ほろしん」は、地区内を流れる雨竜川の支流・幌新太刀別川(ほろにたちべつがわ、アイヌ語で「湿地を流れる大きな川」を意味するポロ・ニタッ・ペツに由来)の前半部をとったものである[1]。 8月21日大正12年(1923年)8月21日、沼田町内の恵比島地区で、太子講の祭が開催された。日ごろ娯楽も少ない開拓地ゆえ、余興で上演される浪花節や人情芝居を目当てに、近隣の村落から多くの人々が詰めかけた[2][3]。 最初の襲撃村民を熱狂させた祭も午後11時半ごろにはお開きとなり、幌新地区の支線の沢や本通筋から祭りに参加していた一団[注釈 2]も、夜の山道を家路へと急いでいた。 一行が幌新本通りの沢に差し掛かったところ、小用のため50 mほど遅れて歩いていた林謙三郎(19) [注釈 3]が、突然現れた巨大なヒグマに背後から襲われた[2] [4]。 暗闇の念仏恐怖とパニックに陥った一団は、そこから300 mほど離れた木造平屋建ての農家・持地乙松 宅に逃げ込み、屋根裏や押入れの中に身を隠し、囲炉裏にガンピ(シラカバの樹皮)を大量にくべて火を強めるなどしてヒグマに立ち向かう手はずを整える[2] [6]。 8月22日妻子を奪われた三太郎はじめ、避難民らは心身ともに苦痛に苛まれ、焦燥に駆られるばかりだった。しかし銃の備えもない農家ゆえ、屋内に閉じこもってわが身を守る以外に打つ手はない。 8月23日山中に消えた狩人22日のうちに、惨劇は沼田町全域に知れ渡った。 8月24日ヒグマの最期24日、在郷軍人、消防団、青年団など総勢300人あまりの応援部隊が幌新地区に到着した。さらに、幌新、恵比島の集落民のうち60歳未満の男子が残らず出動し、村始まって以来のヒグマ討伐隊が結成された[7] [12]。 ヒグマが討ち取られた時点で村田幸次郎、村田ウメ、長江政太郎、上野由松 の計4名が死亡し、林謙三郎、村田三太郎、村田與四郎、折笠徳治 の4名が重傷を負っていた。 加害クマは、体長2 m、体重200 kg(沼田町ふるさと資料館によれば340 kgの記録があるとも)の雄の成獣だった。解剖の結果、胃からは大きなざる一杯分にも及ぶ人骨と、未消化の人の指が発見された[7] [12]。 その後このヒグマの毛皮は沼田町立幌新小学校に保存されていたが、1967年(昭和42年)に幌新小学校が廃校になったあとは幌新会館に移され、2025年現在は沼田町ふるさと資料館分館に展示されている[13]。また、重傷を負った林謙三郎は、その後一度も山に入らなかったという。 なお、事件の舞台である幌新太刀別川上流部では、その後浅野炭鉱と昭和炭鉱が次々と開発された。留萌港で貨物輸送を行っていた私鉄の留萌鉄道が、恵比島駅を起点とする「炭礦線」を開通させ、それに伴って山中に2千人以上の人口を有する小都市が生まれ、大いに栄えた。しかし1960年代末の炭鉱閉山とともにゴーストタウンと化し、現在では沼田ダム貯水池の底に沈んでいる[注釈 7]。 補足21世紀の現在、沼田町は、北海道でも有数の米どころだが、明治の開拓以前は面積の8割を原生林に覆われ、まさにヒグマの天地だった。この環境の中で開拓民とヒグマの接触事故は頻々と発生し、「開拓小屋にクマが侵入し、収穫したてのトウキビ(トウモロコシ)を食われた」「収穫間近のトウキビを一晩で一反(10アール)分食われた」などの逸話には事欠かない[14]。 「石狩沼田幌新事件」以外の人身事故、家畜殺傷事件も相次ぎ、大正2年(1913年)には奔々地区(現在の更新3地区)で通学途中の小学生が体重200 kgのヒグマに襲われ、内臓をすべて食い尽くされた[15]。同じ頃、安達地区(現在の共成3地区)では農作業中の若い女性が襲われて瀕死の重傷を負った[16]。 さらに昭和30年代に至っても、共成、東予、更新、真布、さらに幌新など町内各所にヒグマが出没し、農作物や家畜に被害を与えている[17]。 事件の原因夏祭り帰りの一行が最初にヒグマに襲われた地点には、斃死した馬の死体が埋められていた。加害ヒグマは数日前よりこの死体を食べており、偶然現れた一行を「大事な餌を奪う敵」と見なし、排除に及んだのが事件の発端だと思われる[3]。 三毛別羆事件 |
ヒグマ(羆、緋熊、樋熊、学名:Ursus arctos[3])は、クマ科に属する哺乳類である。ホッキョクグマと並びクマ科では最大の体長とされる。また、エゾヒグマは現代の日本列島に生息する最大の陸棲哺乳類であり、現代でも同列島に生息している数少ないメガファウナの一種である。また、ロシアやフィンランドの国獣である。 学名 学名「Ursus arctos」の「Ursus」はラテン語でクマを意味し、「arctos」もギリシャ語でクマを意味する「ἄρκτος」をラテン文字化したものである。 分布 ヨーロッパからアジアにかけてのユーラシア大陸と北アメリカ大陸、北海道に幅広く生息している。その生息地は温帯からツンドラ気候の地域(北極海沿岸など)にまで及ぶ。現存するクマ属の中では最も広く分布する。亜寒帯・冷温帯などに生息するイメージが強いとされ実際にその傾向があるが、生息域は過去には地中海沿岸やメキシコ湾岸やなど温暖な地域にまで及んでいて、人間による開発や乱獲によって減少し、人口密度の低い北方に生息するようになったとされる。個体群や亜種の絶滅は過去150年間に集中し、アラスカを除く北米大陸と西欧で著しい。北アフリカに分布していたアトラスヒグマが1870年に絶滅したことで、クマ科がアフリカ大陸から消失している。日本列島では後期更新世までは本州にも生息していた[3]。 分類 亜種→詳細は「en:Subspecies of brown bear」を参照 基亜種はユーラシアヒグマ (U. a. arctos)。ヨーロッパヒグマともいう。ヨーロッパから西シベリアにかけて生息するが、主要な生息域はロシアである。イギリスで絶滅など、ロシア以外の多くの国では個体数が激減している。他に、 北アメリカ北西部に生息するハイイログマ(グリズリー、U. a. horribilis) アラスカに生息するコディアックヒグマ(Kodiac Bear U. a. middendorffi) 北海道に生息するエゾヒグマ(U. a. yesoensis, U. a. ferox Temminck, 1844, or U. a. lasiotus Gray, 1867) ヒマラヤ山脈周辺に生息しているヒマラヤヒグマなど、計15程度の亜種がある。 絶滅亜種としては、メキシコハイイログマ(U. a. nelsoni)、カリフォルニアハイイログマ(U. a. californicus)、19世紀のアフリカ大陸北部の地中海沿いのアトラス山脈周辺に生息したアトラスヒグマ(U. a. crowtheri)が存在していた。なお、20世紀初頭に最大級の亜種であるカムチャッカオオヒグマ(U. a. piscator)が絶滅したとされていたが、近年はカムチャッカヒグマ(U. a. beringianus)のシノニムの一つとして扱われている[4]。 エゾヒグマ→詳細は「エゾヒグマ」を参照 2009年10月には国後島で白い個体の撮影に成功しており、同島に生息する推定300頭の1割が白色個体とみられ引き続き調査が行われている。2012年の夏には北海道西興部村でもアルビノと見られる個体が目撃されている[7]。 雑種→詳細は「ハイイログマとホッキョクグマの雑種」を参照 ホッキョクグマはヒグマの近縁種であり、生殖的隔離が存在しない。通常北極圏ではヒグマは陸、ホッキョクグマは海と生息域がことなり混血の機会はないが、自然環境でも両者の混血の発生事例が報告されており、地球温暖化の影響が懸念されている。 形態 オスの成獣で体長2.0 - 2.8mで体重は250 - 500kg程度に達する。メスは一回り小さく体長1.8 - 2.2mで体重は100-300kgほど。がっしりとした頑丈な体格を持ち、頭骨が大きく肩も瘤のように盛り上がっている。 個体群によって体毛の毛色に差異が見られる場合があり、たとえば千島列島には部分的に白や銀に変色した体毛を持つ個体が散見され、ごく稀に北海道でもその様な事例がある[8][9]。この現象の厳密な原因は不明だが、各個体群が受け継いでいる染色体の中の遺伝子座が作用している可能性がある[9]。また、千島列島における白や銀の体毛を持つ個体は、通常の個体よりも狂暴性が低い傾向があるという意見も存在する[9]。 ヒグマは栄養状態によって生じる個体差が顕著で、溯上するサケ・マス類を豊富に食べられる環境にいるヒグマは大きい。中でも有名なのが、アラスカ沿岸のコディアック島、南西部のカトマイ国立公園と、極東ロシアのカムチャツカ半島に生息するヒグマで、共に500kg以上の個体が記録されている。野生のヒグマで最大の記録はコディアック島で捕らえられた個体で1,134kg(2,500ポンド)以上[10][要検証]。エゾヒグマでも、1980年に羽幌町で射殺された体重450kgの通称「北海太郎」や、1982年に古多糠の牧場で子牛3頭を襲った500kgの雄(6歳)、2007年11月にえりも町の猿留川さけ・ます孵化場の箱罠にかかった推定年齢17歳・520kgのオスなど大型の個体もおり、近年大型化しているとの指摘もある[要出典]。このます孵化場の箱罠では、300kgの個体も捕獲されている。三毛別羆事件を引き起こした通称「袈裟懸け」は340kgであった[11]。 生態 食性は雑食だが、同じクマ科のツキノワグマに比べると肉食の傾向が大きい。シカやイノシシ、ネズミなどの大小哺乳類、サケやマスなどの魚類、果実などを主に食べる。トラやオオカミなどの他の肉食獣が殺した獲物を盗むことも近年の研究で明らかとなった。家畜はヒグマにとって格好の獲物ではあり襲撃も増加している[12]。まれに人を捕食することもあり、一度でも人を食べたヒグマは人間を襲う傾向があるため、極めて危険である[13]。また自分が捕獲した獲物に対して強い執着心を示すため、ヒグマに奪われた物を取り返す行為は危険である。地上を走行する時の最高時速は48kmである[14]。 川を遡上するサケを待ち伏せして捕食することも有名である。ただし、ヒグマの栄養源のうちサケが占める割合は北米沿岸部の個体群では栄養源全体の30%以上であるのに対し、知床半島に生息するヒグマでは栄養源全体の5%にすぎなくなっているとされ、遡上減による生態系への影響が懸念されている[17]。 冬季には巣穴で冬眠をする。冬眠中には脈拍、呼吸数が大幅に減少する。この間(通常2月)に出産するが、出産したばかりの子供の体は非常に小さい。冬眠しない個体もあり、人を襲う場合もある。 成獣にはトラが天敵となる。シベリアでは生息域が重なるためトラとは敵対関係にある。 トラとヒグマが遭遇し対立した44の事例の内、これらの22例でヒグマが殺され、12例でトラが殺され、10例で互いに生き残り別れた[18]。大きなオスのヒグマは、メスのトラや小型のトラには勝ち目があるが、オスのトラへの勝ち目は薄い[19]。ロシアから中国の太平溝自然保護区にトラが入って来た時、この地域でのヒグマの出没頻度が著しく減少したという報告がある[20]。 ヒグマはホッキョクグマに対しては優位である。 ボーフォート海岸沿いの地域ではヒグマとホッキョクグマの生息域が重なっているが、 ヒグマとホッキョクグマが獲物を争う観測された137の事例ではうち124回はホッキョクグマの逃走で終わった[21]。 イノシシ、ロバ等の家畜、ワピチ、ヘラジカ、アメリカバイソン等の中・大型の動物はヒグマの成獣を殺すことがあり、健康で成熟した大型種(ワピチの雄、ヘラジカ、アメリカバイソン)はヒグマの捕食対象になることは無い]。 人間との関わり →「熊害」も参照 日本
ヒグマの毛皮は古くから交易品であり、『日本書紀』斉明5年(659年)条には、次のような記述が見られる。「来日した高句麗使人がヒグマの皮一枚を綿60斤で売ろうとしたが、日本側の市司(いちのつかさ)は笑って相手にしなかった。その後、使人は、高麗画師子麻呂の家を訪ねるが、官から借りたヒグマの皮70枚を敷き詰められて接待を受けたため、高値で売ろうとした事を恥じ、不思議に思った」。7世紀において、列島北方との交流をうかがわせるものであり、半島からの交易物による文化的優位性に対抗した話とみられる[28]。 アイヌは、ヒグマやエゾタヌキなど狩猟の対象となる生き物を、「カムイが人間のために肉と毛皮を土産に持ち、この世に現れた姿」と解釈していた。その中でも特にヒグマをキムンカムイ(山の神)として崇め、猟で捕えた際は「自分を選んでたずねてきた」ことを感謝して祈りを捧げ、解体した後は頭骨にイナウを飾り付けて祀った。さらに春先の穴熊狩りで小熊を捕獲した際は、コタン(村)に連れ帰って一年間大切に育てることで「人間界の素晴らしさ」を伝え、毎秋にはイオマンテ(熊送り)と呼ばれる祭を催し、ヒグマの仔を殺すことで天に返した。人間に大切にもてなされた熊の霊に天上界で「人間界の素晴らしさ」を広めてもらい、それによって更に多くのカムイが人間界へ「肉と毛皮の土産」を携えて訪問することを期待するのである。人間を傷つけたヒグマはウェンカムイ(悪い神)とみなされる。熊狩りの際に重傷を負わされた場合、そのヒグマの肉や毛皮を利用はするものの、頭骨を祀ることはしない。人間を食い殺したヒグマを捕えた場合は、その場で切り刻んで放置し、腐り果てるにまかせる。アイヌの伝承において、エゾタヌキはヒグマの巣の近くに巣を作るが、なぜか捕食されないことから、ユーカラではヒグマの世話役として描かれる[29][30][31]。 現代ではヒグマはキタキツネとともに、北海道観光の象徴的なマスコットとされ、アイヌが儀礼用の道具に彫るものから木彫りの熊まで幅広い商品がある。登別温泉などにあるクマ牧場のように観光用のヒグマ飼育施設まで存在する。そこではヒグマに芸を仕込んでいることもある。 同時に、野生ヒグマによる人や農漁業への被害、鉄道線路への侵入や列車との衝突事故も深刻であり、2021年度の死傷者数は12月時点で12人と、北海道庁が1962年度に集計を開始して以来の記録であった8人(1964年度)を上回り最悪となった[32]。駆除の優先度も、エゾシカなどに比べて高い。その被害も農作物への被害(夕張メロンなど)から、家畜、畜産物、人的被害にまで及ぶ。明治時代には北海道で多数の人間が襲撃されており、苫前三毛別羆事件のように小規模な天災に匹敵する死者(7人死亡、3人重傷)を出すことすらある。また近年になって増加傾向にあり、遭遇事故だけでも年々増加してきている[33][34][35]。 世界遺産となった知床半島において、観光客やカメラマンがヒグマを撮影しに多数訪れるようになり、ヒグマを至近距離から多人数で取り囲んだりするなどの行為が報告されるようになり、環境省や学識経験者などは、いずれは人身事故が起こりかねないとして、こうした危険行為を慎むよう警告している[36]。 日本に限ったことではないが、人間が山中にごみをポイ捨てしたり、あまつさえ(攻撃性をあまり示さない)個体に餌を与えたりなどすることで、クマがヒトの食物の味を学習し、人に興味を持ったり人里に出ようとする事案が後を絶たない。保護団体ではエアソフトガン等で痛めつけてヒトの恐ろしさを学習させるなどして、山に帰るよう促しているが、それでも治らない個体は、自治体がハンター団体に依頼して殺処分される。そのような個体はいずれヒトを襲うようになる恐れがあるからである。北海道は道内のヒグマ生息数(平成24年度)を10,600頭±6,700頭と推定している[37]。OSO18と呼ばれる個体は2019年から数年にわたって放牧された牛を捕食している[38]。「山で一番怖いもの」「山の主人」との意味で、北海道では野性のヒグマは「山親爺」とも呼ばれる[39]。 2022年4月、北海道庁は新たにヒグマ対策室を新設[40]。同5月、ヒグマによる被害や出没状況に応じて「警報」や「注意報」を発出、住民に注意を呼びかける制度を始めた[41]。2025年7月12日、福島町で新聞配達員の男性がヒグマに襲われて死亡した事故を受け、同町全域で強い警戒を促す「ヒグマ警報」が発出された。2022年5月に注意報や警報の制度ができて以来初めて[42]。7月18日に同町で駆除されたヒグマ1頭が12日に新聞配達員の男性を襲い死亡させたヒグマと同一個体であると判明したため、19日に「警報」は解除されたが、目撃情報などから別の1頭が付近にいる可能性もまだ否定はできないとして「注意報」が出され注意が呼びかけられた[43]。 2025年9月施行の改正鳥獣保護管理法においては、市町村の判断で市街地でも特例的に猟銃が使えるようになる(「緊急銃猟制度」[注 2][45])。従来は住宅密集地での猟銃の発砲は原則として禁止されており、ハンターは警察官の許可がなければ発砲できず、クマ被害への迅速な対応において課題とされていた[44]。改正鳥獣保護管理法の施行を前にした8月28日、北海道猟友会は、人身事故が起きた場合のハンターへの補償が不十分なことを理由として、ハンターが自治体の発砲要請に応じないことを容認する方針を各支部に通知することを明らかにした[46]。10月24日、札幌市西区西野の公園でヒグマ2頭に対する緊急銃猟が行われ、ヒグマに対する初めての緊急銃猟の実施となった[47]。 北米北米先住民にとって、ヒグマをはじめとするクマは畏敬と信仰の対象であった。プエブロ・インディアンの焼き物や宝飾品、ズニ族のフェティッシュと呼ばれる動物をかたどったお守りには、クマのモチーフが好んで用いられる。 北米では、絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律をはじめとする保護法の発効以来ヒグマの個体群数は回復の傾向にあるが、放牧業を営む畜農家との軋轢、拡大する住宅地、国立公園などでの観光客との接触、ハンターとの接触、交通事故など、人とヒグマとの共存は容易ではない。 ハイイログマの個体群は、アメリカ合衆国では絶滅危惧特別個体群(Threatened Distinct Population Segment)、カナダでは絶滅危機特別個体群(Endangered Distinct Population Segment)に指定され、連邦法と州法で保護されている。
ワシントン条約附属書I類[1] ヒグマが登場する作品
映画
ドラマ小説
エッセイ漫画
その他
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| 三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)は、1915年(大正4年)12月9日から12月14日までにかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢で発生した熊害事件。エゾヒグマが開拓民の集落を二度にわたって襲撃し、死者7人・負傷者3人を出した後、猟師の山本兵吉により射殺された。三毛別事件(さんけべつじけん)や六線沢熊害事件(ろくせんさわゆうがいじけん)、苫前羆事件(とままえひぐまじけん)、苫前三毛別事件(とままえさんけべつじけん)とも呼ばれ[1]、日本史上最悪の熊害と評されることもある[2]。 事件の経緯 ![]() クマの出現六線沢と呼ばれていた開拓集落は現在のルペシュペナイ川上流域にある。苫前の中心部から30キロメートルほど南東で、15軒の家があった[9]。 1915年(大正4年)11月初旬、池田富蔵家にヒグマが現れ、軒下のトウキビが被害に遭った。同月20日未明にも再びヒグマが現れ、被害はなかったものの、富蔵はクマの脅威を身近に感じ始め、何か対策を打たなければならないと不安を募らせていた[10]。30日、富蔵はマタギ2人に張り込みを頼んだ。ヒグマが現れたが、傷を負わせたのみで取り逃がした[11]。 事件発生 第一の襲撃事件 12月9日、太田三郎家に残っていた内縁の妻阿部マユと、養子に迎える予定だった蓮見幹雄(6歳)がヒグマに襲われた。これは一連の襲撃事件のうち、最初の襲撃であった。 三郎は山での作業のため不在だったが、帰宅時に囲炉裏に座っている幹雄を発見した。三郎は、幹雄が寝ているのだと思い近づいてみたところ、喉と側頭部に親指大の穴が開いており、既に息絶えていた[12]。さらにヒグマはマユの体を引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた[13] [14]。加害クマを追跡するにはすでにもう遅い時間で、日没が迫る中、住民たちに打つ手はなかった[14]。 ![]() ![]() ![]() 翌日の12月10日9時頃、捜索隊が結成された。あまりにも近い場所からクマが出てきたため、驚いた一行は慌てふためいて銃口を向けたが、手入れが行き届いておらず、発砲できたのは1丁のみであった[15]。 銃声を聞いてヒグマが逃走した後、男たちがヒグマのいた付近を確認すると、トドマツの根元に黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見し、収容した[15]。このヒグマは人間の肉の味を覚えた。マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動であった。 第二の襲撃事件 同日夜、太田宅で幹雄とマユの通夜が行われたが、村民はヒグマの襲来に怯え、参列したのは六線沢から3人と三毛別から2人、幹雄の両親とその知人、喪主の太田三郎のあわせて9人だけだった[15]。 20時半ごろ、太田宅にヒグマが乱入してきた。ランプが消え、棺桶が打ち返されて遺体は散らばり、恐怖にかられた参列者たちは梁に上ったり屋外に飛び出したりと、右往左往の大混乱となった[16]。幹雄の父親である蓮見嘉七はいち早く妻のチセを踏み台にして屋根裏の梁に駆け上がり、踏み倒されたチセは参列者の堀口清作に助けられてようやく天井の梁に逃れた。嘉七は死ぬまでチセに頭が上がらなかったという。300 m先の家で食事をしていた50人が駆けつけたが、ヒグマはこの時には姿を消していた。犠牲者が出なかったことに安堵した一同は、太田宅から500 mほど下流にある明景家に退避しようと下流へ向かった[17]。 そのころ明景家には、戸主・明景安太郎(40歳)、その妻・明景ヤヨ(34歳)、長男・力蔵(10歳)、次男・勇次郎(8歳)、長女・ヒサノ(6歳)、三男・金蔵(3歳)、四男・梅吉(1歳)の7人と、事件を通報するため30kmほど離れた苫前村役場や19kmほど離れた古丹別巡査駐在所に向かっていた斉藤石五郎(42歳)[18]の妻で妊婦の斉藤タケ(34歳)、三男・巌(6歳)、四男・春義(3歳)の3人、そして事件のあった太田宅の寄宿人で男手として明景宅に身を寄せていた長松要吉(59歳)の合計11人(タケの胎児を含めると12人)がいた[16]。 (苫前町立郷土資料館) 太田家からヒグマが消えて20分と経たない[16]20時50分ごろ、激しい物音と地響きを立てながら、窓を突き破って黒い塊が侵入してきた。ヤヨはその塊に「誰だ」と呼びかけたが、それはヒグマであった。混乱の中で囲炉裏とランプの火が消え、ヒグマは暗闇の中で人々に次々と襲いかかった[19]。 ヤヨと彼女に背負われていた梅吉はクマに噛まれて負傷するも、クマは逃げる要吉に気を取られたため難を逃れ、外に逃れた。一方で追われた要吉は牙を腰のあたりに受けて重傷を負った[20]。さらにヒグマは居間にいた金蔵と春義を殺害、巌に噛みつき重傷を負わせる。野菜置き場に隠れていたタケは気づいたヒグマによって居間に引きずり出され、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたがやがて意識を失い、上半身から食われて殺害された[21]。 激しい物音と絶叫を聞いて駆けつけた村の男たちは、負傷したヤヨに助けを求められた。「家を焼き払う」「一斉銃撃をする」などの案も出たが、中に生存者がいることを案じたヤヨの反対で止められた。生存者を救出したうえで家を取り囲み鉄砲を空に向かって放つと、ヒグマは玄関から躍り出て男たちの前に現れ、彼らが撃ちあぐねているうちに裏山の方へと姿を消した[21]。男たちが家の中に入って様子を確認したところ、殺害されたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという(後に死亡)[22][20]。 結果的にこの日の襲撃では、タケ、金蔵、巌、春義、タケの胎児の5人が殺害され、ヤヨ、梅吉、要吉の3人が重傷を負った[23]。力蔵は雑穀俵の後ろに隠れ生還、ヒサノは失神し居間で倒れていたが、同じく生還した[22]。勇次郎は、母・ヤヨや弟・梅吉が重傷を負いながらも共に脱出し、奇跡的に無傷だった[23]。 この夜の襲撃を受けて、六線沢集落の全住民は三毛別にある三毛別分教場(後に三渓小学校になるが廃校)へ避難することになり、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。巌は母・タケの惨死を知る術もないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めつつ20分後に息絶えたという[24]。 駆除に至る経緯 討伐隊の組織 12月12日、斎藤石五郎から通報を受けた北海道庁警察部(現在の北海道警察)は、管轄の羽幌分署長の菅貢に討伐隊の組織を指示、本部は三毛別地区長の大川興三吉宅に置かれた[22]。しかし、林野に上手く紛れるヒグマをすぐに発見することはできなかった[22]。 ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性があり、これを利用してヒグマをおびき寄せる策が提案され、隊長の菅はこの案を採用し、遺族と住民に説明した[22]。こうして、明景宅に残された犠牲者の遺体を「餌」にしてヒグマをおびき寄せるという作戦が採用された[25]。作戦はただちに実行されたが、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家の周囲を巡り、森へ引き返していった[25]。その後太田宅に3度目の侵入を企てたが、結局射殺することはできなかった[25]。 翌13日、陸軍歩兵第28連隊の将兵30人が出動した。一説にはこの日は出動せず、14日までにヒグマが討伐されなければ出動を要請することになったともいわれる[26]が、陸軍のいた旭川から六線沢までは当時数日かかったため、しばらくは警察と住民のみで集落を守らなければならなかった[27]。同日には住民が避難して無人になっていた六線沢の8軒がヒグマに侵入される被害に遭い、猟師の山本兵吉(当時57歳)がそのうち1軒にヒグマが侵入するのを目撃したが、射殺には至らなかった[25]。 20時ごろ、三毛別と六線沢の境界にある氷橋(現在の射止橋)で警備に就いていた1人が、対岸に6株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかもかすかに動いていることを不審に感じた[25]。菅はその方向に呼び掛けたところ返事がなかったため熊だと判断、菅の命令によって撃ち手が対岸や橋の上から銃を放つと怪しい影は動き出し、闇に紛れて姿を消した[28]。 事件終息熊に傷を負わせた翌朝、足跡と血痕が発見された。けがを負っているなら動きが鈍るであろうと判断した菅は、急ぎ討伐隊を足跡が続く山の方角へ差し向ける決定を下した[28]。一方、前日にヒグマの姿を目撃していた山本は、討伐隊の一行とは別行動で山に入った[29]。 山本は討伐隊より先に山を登り、ヒグマを発見した。ヒグマは討伐隊の方向に意識を向けており、山本には気づいていなかった。20 mという至近距離まで接近した山本はハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えて[28]背後から発砲し、心臓付近に命中させた。しかしヒグマは怯むことなく立ち上がり、山本を睨みつけた。山本は油断なく2発目を発砲し、ヒグマの頭部を貫通。10時、一連の事件を引き起こしたヒグマは絶命し、事件は終息した[30][31]。 12日からの3日間で投入された討伐隊員は官民合わせて延べ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼった[32]。ヒグマの死骸は住民たちによってそりで下ろされた。すると、にわかに空が曇り雪が降り始め[32]、事件発生からこの3日間は晴天が続いていたが、この雪は激しい吹雪に変わり[2- 1]そりを引く一行を激しく打ちつけた。この天候急変を村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ[33]。 集落に下ろされたヒグマは三毛別分教場で解剖され、胃から人肉や衣服などが発見された[34]。さらに、解剖を見物しに来た人々が「このクマは太田宅を襲撃する数日前に雨竜、旭川付近、天塩で3人の女性を殺害し食害に及んだクマである」と次々に証言、胃の中からは実際に彼女らが身に着けていたとされる衣服の切れ端などが見つかり、その証言が裏づけられることとなった[35][注釈 2]。その後、ヒグマの毛皮や頭蓋骨などはそれぞれ人の手に渡った後に、現在は行方不明になっている[37]。 事件の記録 この事件は人々の記憶から消えた。それは、1878年(明治11年)1月11日-12日にヒグマが3人を殺害した札幌丘珠事件[38]の記録が詳細に残されたことが影響している。高倉新一郎も著作でこの事件を大きく取り上げる一方で、三毛別羆事件は補足的な採録にとどまり、被災の詳細などにも間違いが見られる[39][40]。 1961年(昭和36年)当時、古丹別営林署の林務官として苫前町内に勤務していた木村盛武が、「世界に類を見ない大事件が埋没してしまうのは学術的にも良くない」と考え、30数人の関係者から証言の聞き取りを行った[41]。木村が調査を行うまで、極寒の僻地で起こったことなどから発生当時の新聞報道も不正確な記述が多く、当事件に関する正確な記録は残っていなかった[41]。事件発生から50年後の1965年(昭和40年) 、証言をまとめた『獣害史最大の惨劇苫前羆事件』を旭川営林局誌『寒帯林』で発表[41][42]、 1994年(平成6年)には『慟哭の谷 戦慄のドキュメント 苫前三毛別の人食い熊』として書籍化された[43]。 |
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