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 北方領土 https://qr.paps.jp/DoLxO https://nspc.naga-masa.com/00007.html

ロシア連邦(ロシアれんぽう、ロシア語: Российская Федерация)、通称ロシアロシア語: Россия)は、ユーラシア大陸に位置する連邦共和制国家である。首都モスクワ[3]

国土ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の領土を引き継いでおり、ヨーロッパからシベリア極東におよぶ。面積は17,100,000 km2平方キロメートル)以上の世界最大面積を有する国家である[4]

概要

世界報道自由度ランキング(2023年)
世界報道自由度
ドイツ
81.91
フランス
78.72
イギリス
78.51
イタリア
72.05
ロシア
34.77

ロシアは国際連合安全保障理事会常任理事国であり、旧ソビエト連邦構成共和国でつくる独立国家共同体(CIS)の指導国[注釈 1]であるだけでなく、BRICSG20アジア太平洋経済協力(APEC)、上海協力機構(SCO)、ユーラシア経済連合(EAEU)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、世界貿易機関(WTO)などの加盟国である。かつてG8加盟国であったが、2014年3月にクリミア併合を強行したことによりG8の参加資格を停止させられた[5]

核拡散防止条約により核兵器の保有を認められた5つの公式核保有国の一つであり、世界最大の大量破壊兵器保有国英語版である。国防費2010年以降増加の一途を辿っていたが、2026年度の連邦予算案ではウクライナ侵攻後初の減少に転じた[6][7]常備軍ロシア連邦軍地上軍海軍航空宇宙軍の3軍の他、戦略ロケット軍空挺軍の2つの独立兵科で構成されている。運用面では地理的に分割された軍管区に権限が委譲されており、それぞれに統合戦略コマンドが設置されて3軍と通常兵器部隊を指揮している(戦略核兵器部隊は指揮権外)。現役軍人は約90万人である[6]が、2022年ロシアのウクライナ侵攻に伴う大量の戦死傷・捕虜動員で変動しており、ロシア政府は2026年にかけて軍の定員を150万人へ増やす計画を進めている[8]

政治体制は、ソビエト連邦の崩壊に前後してソビエト共産党による一党独裁制が放棄されて複数政党制に基づく選挙が行われるようになったが、2003年以降は事実上ウラジーミル・プーチン率いる与党統一ロシア」の一党優位政党制になっている[9]。複数政党制や選挙は一応存在するが、選挙から反体制派候補を排除するなどプーチン体制に有利な政治制度が構築されており、政治的意思を表明する機会に乏しい[10]。「法の独裁」による統治を目指す強権的体質が内外から批判されており[9]エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界134位と下位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)[11]

言論の自由に関しても、国境なき記者団による世界報道自由度ランキングは149位と下位である(2020年度)[12]。特に、2022年のウクライナ侵攻以降は「広範囲に検閲を行うなどしてニュース情報を完全に支配している」と非難されており、2022年は155位[13]、2023年は164位と大幅に順位を落としている。

領土や軍事力に比べてロシアの経済は国際的地位が低いものの、2014年時点の名目GDP世界第9位発展途上国に有利になる購買力平価では世界第6位)であった[14]鉱物およびエネルギー資源は世界最大の埋蔵量であり[15]世界最大の原油生産国英語版および世界最大の天然ガス生産国英語版の一つである。しかし、資源依存の経済体質であるため、原油安の時期は経済が停滞する[16]。加えて2014年クリミア併合を強行したことにより、欧米から経済制裁を受けてさらなる打撃を受けている[17]。2022年にはウクライナへ侵攻したことでSWIFTからの排除など、さらなる経済制裁を受けている[18]

2023年時点ではロシアは世界第2位の暗号資産マイニング大国であり、ブロックチェーン技術を使用した国際決済(BRICS PAY)の推進や、新たな機関を設立する計画を進めている[19][20][21][22]

人口はロシア連邦国家統計庁によれば1億4680万人(2017年時点。ソ連時代の1990年には2億8862万人であった)[6]であり、世界第9位、ヨーロッパで最も多い人口である[23]。最大の民族はロシア人であるが、ウクライナ人ベラルーシ人トルコ系のウズベク人、またシベリアや極東の少数民族なども存在し、合計で100以上の民族がある。公用語ロシア語であるが、少数民族の言語も存在する[9]。宗教はキリスト教徒が人口の60%を占め、その大半がロシア正教会の信者である。イスラム教徒も人口の8%ほどおり、仏教徒も存在する[9]

地理としては大陸境界では、北西から南東へ、ノルウェーフィンランドエストニアラトビア、ともにカリーニングラード州と隣接するリトアニアおよびポーランドベラルーシウクライナジョージアアゼルバイジャンカザフスタン中国モンゴル北朝鮮と接する。海上境界線としては、日本とはオホーツク海カナダとは北極海アメリカアラスカ州とはベーリング海峡を挟んで向かいあう。ロシアの国土面積は17,075,400 km2世界最大であり、地球上の居住地域の8分の1を占める。国土が北アジア全体および東ヨーロッパの大部分に広がることに伴い、ロシアは11の標準時を有し、 広範な環境および地形を包含する。

歴史の概要

ロシアの歴史は、3世紀から8世紀までの間にヨーロッパで認識され始めた東スラヴ人の歴史に始まる[24]9世紀ヴァリャーグの戦士の精鋭およびその子孫により設立・統治され、キエフ大公国中世国家が誕生した。

988年、東ローマ帝国からキリスト教正教会を導入し、次の千年紀ロシア文化を特徴づける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった[25]。キエフ大公国は最終的に多くの国に分裂し、13世紀には領土の大部分がモンゴルに侵略され、遊牧国家ジョチ・ウルスの属国になり、ロシアが西洋から隔絶される原因となった(タタールのくびき[26]モスクワ大公国は次第に周辺のロシアの公国を再統合し、キエフ大公国の文化的・政治的な遺産を支配するようになった。クリコヴォの戦いでジョチ・ウルスを破った後、ジョチ・ウルスは衰退し、イヴァン3世(イヴァン大帝)の時代に独立した。東ロシアのほとんどがモスクワ大公国に服した[27]

16世紀中ごろにイヴァン4世(イヴァン雷帝)がモスクワ帝国を建設した。ピョートル大帝は、ロシア人がバルト海に行く道を確保し、1703年にバルト海に面するサンクトペテルブルクを建設した。1712年にサンクトペテルブルクはロシアの首都になり、1721年ロシアは帝国になった。周辺諸国の併合などを繰り返し、史上第3位の領土を持つ帝国となり、版図はポーランドから、北アメリカ大陸北西部(ロシア領アメリカ、後にアメリカ合衆国へ売却)まで広がった[28][29]

1917年ロシア革命の後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ソビエト連邦最大かつ指導的な構成国となった。スターリン時代には大粛清で国民を弾圧する一方で、工業化と軍拡、周辺国の侵略(バルト諸国占領やフィンランドに対する冬戦争)を進めた。第二次世界大戦ではナチス・ドイツの先制攻撃を受けた後に反撃に転じ(独ソ戦)、連合国の勝利に決定的な役割を果たした[30][31]。こうして世界初の憲法上の社会主義共和国および、戦後はアメリカ合衆国と並ぶ超大国となった[32]アメリカやその同盟国とは冷戦で激しく対立したが、ソビエト連邦の宇宙開発は初期においてアメリカを凌駕し、世界初の人工衛星および世界初の有人宇宙飛行を含む20世紀のもっとも重要な複数の技術的偉業英語版を経験した。やがてソ連共産党による一党独裁の弊害が噴出するようになり、1991年にソ連の崩壊に至った[9]

新たにロシア連邦を国名とし、ロシアも同等の国名とされた(1992年の憲法改正により)。ロシアの国旗は革命前の白・青・赤の3色旗に戻り、国際連合における地位などは基本的に旧ソ連を引き継いでいる[9]安全保障理事会常任理事国など)。

国名

ロシア連邦Российская Федерацияラテン文字転写: Rossíjskaja Federátsija など、発音:ラッスィーイスカヤ・フィディラーツィヤIPA: [rɐˈsʲijskəjə fʲɪdʲɪˈratsɨjə]Ru-Rossiyskaya Federatsiya.ogg 発音[ヘルプ/ファイル])。ロシア語では略号のРФRF)も使われる。英語表記は Russian Federation [33]

ロシア連邦憲法第1条第2項でロシア連邦ロシアРоссияRossíjaラッスィーヤ[rɐˈsʲijə] Ru-Россия.ogg 発音[ヘルプ/ファイル])は同じ意味(同等の扱い)としており[34]、ロシア語においてもロシア連邦の意味でロシアが使われることもある。

歴史的な国名

ロシアの国名は、現代のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシャ語Ῥωςから派生したῬωσσία現代ギリシャ語ではΡωσία)。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、「ルーシの遺産の争い」をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀イヴァン4世(雷帝)のころに使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝インペラートル)と称したことにより、対外的にも正式の国名となっている。

ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語[注釈 2]はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア[注釈 3]、現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア[注釈 4]と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア[注釈 5]という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後に別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。

別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマ帝国の威信も受け継いだという学説も考案された[注釈 6]。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから、公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった[注釈 7]

国名の日本語表記の変遷

従来はよりロシア語名に近いロシヤと表記されることが少なくなかったが、1980年代ごろからギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった[注釈 8]。現代日本語の漢字表記露西亜で、略称は[注釈 9][注釈 10]江戸時代にはオロシャをろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」およびモンゴル語Орос(オロス)に近い呼び名である。

日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜魯西亞、略称)という表記が主流で、1855年江戸幕府とロシア帝国の間の最初の条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について、1877年明治10年、日本経済新聞によると記録がないことから1870年代前半頃としている[35])にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた明治政府は、ロシア側の希望を受け入れ表記を露西亜露西亞)とした[36][37][注釈 11]。ただし、新聞に「露」が使用されるのは1880年代に入ってからとなり(魯が入った条約等はそのままの名称で記載された)、定着まで時間を経る必要があったほか、水産会社のニチロは1990年まで商号として日魯が使われる[35]

1991年12月のソビエト連邦消滅後、日本経済新聞社はロシアの略称を漢字の「露」ではなく、片仮名の「ロ」に統一した[35]

歴史

ロシアの歴史

この記事はシリーズの一部です。
ヴォルガ・ブルガール (7c–13c)
ハザール (7c–10c)
キエフ大公国 (9c–12c)
ウラジーミル・スーズダリ大公国 (12c–14c)
ノヴゴロド公国 (12c–15c)
タタールの軛 (13c–15c)
モスクワ大公国 (1340–1547)
ロシア・ツァーリ国 (1547–1721)
ロシア帝国 (1721–1917)
ロシア共和国 (1917-1918)
ロシア民主連邦共和国 (1918)
ロシア国 (1918年-1920年)
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(1917-1991)
(ソビエト社会主義共和国連邦)
(1922–1991)
ロシア連邦 (1991–現在)
ロシア史 (1991年-現在)

ロシア ポータル

古代

キリスト教化前のロシア

クルガン仮説: インド・ヨーロッパ祖語話者の故郷としての南ロシア

国家や文化、言語の変遷において「ロシア人」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していたとされる。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン人と隣接しており、交易同化などを通して言語文化において互いに大きな影響を与えたとされる。ロシア人にはフィン・ウゴル系民族に多いとされるY染色体遺伝子であるハプログループN系統もある程度見られる[38]

5~7世紀のヨーロッパにおけるスラブ人の再定住
スラブの混沌の神の一柱チェルノボグ

中世ギリシャの作家プロコピオスは、スラブ人(スクラヴ人英語版アント人)は、王を持たない民主的な体制で、彼らが犠牲を捧げる「稲妻の創造主」(ペルーン)という単一の神を信じる野蛮人であるとした。また、非常に背が高く丈夫な体を持ち、髪色は金髪ではないが完全な暗色でもないとした[39]

スラヴ人には独自の文化と神話があった。世界は、自然の法則を支配する天の神々と、人々の習慣や行動を支配する地下の(クトニオスの)神々という、2つの反対の力によって支配されていると信じられていた。

5世紀の初めに、スラブの部族は極東ロシアの領土に移動し、この地域を支配し始めた。同時に、スラブの部族は地理的に西部(ヨーロッパに残っている)と東部に分かれた。

中世

11世紀のキエフ大公国

9世紀の北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている民族集団「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリク大ノヴゴロドとなり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した[注釈 12]。後代に書かれた『原初年代記[注釈 13]には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキーウであり、現在ロシア連邦の支配地域の中心であるモスクワ周辺は辺境であった。モスクワの文献上の初出は1147年であるが、当時はスラヴ民族ではないフィン系メリャ人が居住する寒村であった。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴル人による侵入で2世紀にわたってジョチ・ウルスの支配下に入った[40]。その混乱の中で、それまでキーウにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された。

イヴァン雷帝

数多くいるルーシ諸公の1人に過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にジョチ・ウルスの支配を実質的に脱して他地域への侵攻を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。

16世紀イヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威を認めず、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちは、ポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍とともにモスクワを占領した。一方、ツァーリ派の貴族や商人たちは、政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公信教自由主義ポーランドリトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増した。

そして1612年ドミートリー・ポジャールスキークジマ・ミーニンの指揮の下、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、して撃破、モスクワを再占領した。ロシア連邦政府は21世紀現在でも再占領を誇示し11月4日を祝日としている。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。

ロシア帝国

ロシア帝国初代皇帝ピョートル1世
ロシア帝国と勢力圏

1613年ロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策と、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703年)、大北方戦争1700年 - 1721年)での勝利などによってロシア帝国の絶対主義体制の基盤を固めた[40]。彼の時代から正式に皇帝インペラートル)の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。1762年に即位したエカチェリーナ2世オスマン帝国との露土戦争(1768年 - 1774年1787年 - 1792年)に勝利するとともに、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナとクリミア・ハン国を併合し、名実ともに「帝国」となった。また、大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣(詳細は「北槎聞略」参照[41])され日露関係が実質的に始まった。彼女の時代に農奴制が固定化されていった[40]

アレクサンドル1世の治世において1803年に勃発したナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス帝国軍に侵攻されたが、大損害を負いながらもこれを撃退(1812年ロシア戦役)。戦後はポーランド立憲王国フィンランド大公国を支配して[注釈 14]神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義分離主義運動は厳しく弾圧された。

1831年に始まるエジプト・トルコ戦争以降は、ロシアの南下政策を阻むイギリスとの対立が激化し、中央アジアアフガニスタンガージャール朝ペルシア(現・イラン)を巡って、露英両国の駆け引きが続いた(グレート・ゲーム)。1853年に勃発したクリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世農奴解放令を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、ナロードニキによる農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は、過激なアナキズム(無政府主義)やテロリズムを横行させ[40]、無政府主義者による皇帝暗殺にまで発展した。

ロシアのシベリア征服が進み、中国大陸を支配するや日本との接点が生じた。清とはネルチンスク条約(1689年)およびキャフタ条約(1727年)により国境を定めていたが、清の弱体化によりロシアは極東でも南下政策をとった。アイグン条約(1858年)によりアムール川北岸を奪い、さらにアロー戦争の講和(北京条約)を仲介した見返りに日本海に面する沿海州を獲得し、ウラジオストクを建設した。

19世紀末期には、ロシアはそれまでのドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国との三帝同盟からフランス第三共和国との露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加により、極東へのシベリア鉄道の建設が行われている。20世紀初頭になると極東への関心を強め、満州朝鮮に手を伸ばそうとしたが、日本と衝突して1904年日露戦争となった[40]1905年血の日曜日事件など一連の革命騒動が発生し、日本とポーツマス条約を結んで日露戦争に敗れると、戦後の1907年にロシアはイギリス英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内ではドゥーマ(国会)の開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。

ソビエト連邦

1922年までにおけるソビエト連邦の一部としてのロシア・ソビエト連邦社会主義共和国

1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子らがセルビア人に暗殺されると(サラエボ事件)、同じスラブ系国家であるセルビアを支援して、オーストリア=ハンガリー帝国およびその同盟国であるドイツと対立して互いに軍を動員し、第一次世界大戦が勃発。ロシアは連合国の一員として中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国)と開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された(東部戦線 (第一次世界大戦))。第一次世界大戦中の1917年2月に起こったロシア革命ロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、シベリア出兵などで諸外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。

1917年11月7日には十月革命でソビエト政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を結び大戦から離脱した後、赤軍を率いてロシア内戦に勝利し、1922年の年の瀬には共産党による一党独裁国家ソビエト社会主義共和国連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだ構成4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシア共和国)となった。ソビエト連邦とロシア共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルク[注釈 15]はレニングラードに改称された。ロシア共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国自治州民族管区などが設定され、事実上ロシア共和国とは異なる統治体制をとった。

ソビエト体制でのロシア共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは、事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「ロシア共産党」は連邦崩壊直前の1990年まで創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナ共和国白ロシア共和国(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。

1930年代世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリンによる独裁的な主導の下で農業集団化重工業化が断行され、高い経済成長を達成した。しかし、その実態は農民からの強制的な収奪に基づく閉鎖的な工業化であった。農村からの収奪の結果、ウクライナやロシア南西部では大飢饉が発生した。その歪みはやがて政治的な大粛清強制収容所の拡大など、恐怖に基づく支配をもたらす事態へとつながった(第二次世界大戦後に再び飢饉(ソビエト連邦における飢饉 (1946年-1947年)ロシア語版英語版)が起こる)。

1939年9月の第二次世界大戦勃発直前に一時ナチス・ドイツモロトフ・リッベントロップ協定を結んで協調し、ポーランド第二共和国ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して侵攻し、ポーランドを占領冬戦争でフィンランドにも圧迫を加え、1939年12月の理事会において国際連盟から除名された。1940年にはバルト諸国占領によりソビエト連邦へ併合し、さらにルーマニアからベッサラビア地方を割譲させた。1941年6月には独ソ不可侵条約を一方的に破棄したナチス・ドイツのヒトラーに突如攻め込まれて西部の広大な地域を占領され(バルバロッサ作戦)、危険な状況に陥った。しかし、1942年初頭に首都モスクワ防衛に成功した後、英米をはじめとする連合国の助力もあってスターリングラード攻防戦およびクルスクの戦いを境に、1943年後半には反攻に転じて独ソ戦の主導権を握り、最終的には大戦に勝利した。さらにポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合し、西に大きく領土を広げた。極東方面では、1945年8月、日本に日ソ中立条約の不延長を通告して参戦満州国サハリン南部、千島列島、朝鮮北部に侵攻して占領した。

戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアラトビアなどではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して、8割以上を占めるようになった。1946年には旧ドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年サハリン州に吸収)。一方、1954年には黒海沿岸のクリミア半島クリミア州)がウクライナに移管され、ロシア共和国の領土は2014年のクリミア半島編入以前のロシア連邦にあたる領域になった。

日本はサンフランシスコ講和条約で一部領土を放棄したものの、千島列島南部の北方領土の返還を要求。それ以外の千島列島及び南樺太は、ロシア領土ではなく帰属未定地であると主張している[注釈 16]。ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。なお、日本はユジノサハリンスクに在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置している。外務省によれば、当総領事館が位置しているユジノサハリンスク市(旧豊原市)をはじめとした南樺太は、サンフランシスコ平和条約によりその全ての権利・権限及び請求権を放棄したため、以降ソビエト連邦及びこれを承継したロシアが継続的に現実の支配を及ぼしており、これに対してロシア以外のいかなる国家の政府も領有権の主張を行っていないことなどを踏まえ、千島列島及び南樺太を含む地域を管轄地域とする在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置したものであるとしている[42]

戦後、ソ連は強大なソ連軍の軍事力を背景に1949年北大西洋条約機構(NATO)結成に対抗して1955年ワルシャワ条約機構(WTO)を結成し、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として東側諸国の盟主となり、自国と同様の人民民主主義体制を強要して、世界の2大超大国の一つとしてアメリカを盟主とする西側諸国冷戦を繰り広げた。しかし、既に1948年にはバルカン半島にてチトー主義下のユーゴスラビア社会主義連邦共和国がソ連から離反しており、1956年に共産党第一書記ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判が行われた後は自由主義陣営との平和共存路線を進めたが、このスターリン批判により衛星国であったハンガリー人民共和国ハンガリー動乱が発生し、さらに自由主義国との妥協を批判する毛沢東が率いていた中華人民共和国毛沢東思想に共鳴するアルバニア人民共和国の離反を招くなど、新スターリン主義によるソ連の指導性は揺らいだ(中ソ対立)。

1965年に共産党書記長レオニード・ブレジネフが主導権を握ったあと、ベトナム戦争にてアメリカと戦うホー・チ・ミン率いる北ベトナムを支援したが、ブレジネフ在任中の1968年には衛星国であったチェコスロバキア社会主義共和国で「プラハの春」が始まり、翌1969年にはかねてから対立していた中国と珍宝島ダマンスキー島を巡って中ソ国境紛争を戦うなど、共産圏におけるソ連の指導性はさらに揺らぎ、1970年代に入ると計画経済の破綻などから次第にソ連型社会主義の矛盾が露呈していった。1979年から1989年にかけてアフガニスタンを侵略した。この際、ソ連軍がアフガニスタンの大統領官邸を急襲し、最高指導者ハフィーズッラー・アミーンと警護隊を殺害するというテロ行為(嵐333号作戦)を行っている。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるためペレストロイカグラスノスチを掲げて改革に取り組んだものの、かえって各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。

党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンは、ソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年最高会議ロシア語版議長となると、同年6月12日ロシア共和国と改称して主権宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年8月のクーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国はそろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、翌日12月26日ソビエト連邦は崩壊した

ロシア連邦

成立と脱共産化

1991年12月26日のソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱してロシア連邦として成立し、エリツィンが初代ロシア連邦大統領に就任した。また、ソビエト連邦崩壊により世界規模のアメリカの覇権が成立し、当時はこれを「歴史の終わり」と見る向きも現れた。ロシア連邦は、旧ソ連構成国の連合体である独立国家共同体(CIS/СНГ)加盟国の一つとなった。ロシア連邦は、ソビエト連邦が有していた国際的な権利(安全保障理事会常任理事国など)・国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持した。

国名は1992年5月、ロシア連邦条約によって現在のロシア連邦と最終確定した(ロシア連邦への国名変更は、ソビエト連邦大統領ゴルバチョフ辞任の当日である1991年12月25日、当時のロシア最高会議決議による)。

エリツィン政権下では市場経済の導入が進められたが、急激な移行によってロシア経済は混乱し、長期的な低迷を招いた。その一方で、この時期には「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が台頭し、政治的にも大きな影響力を持つようになった。ソ連政府は国民にあまねく賃貸住宅を配分していたが、それらを建設するだけで巨額の財政負担となっており、財政再建中のロシア連邦がリフォームすることなどかなわず、無償で住民が物件を取得できるようになり急激な私有化を進めた[43]。私有化されていないものは地方自治体への譲渡が進み、人口減少社会となるなか、若者向けに低家賃で貸し出した[43]

1993年には新憲法制定をめぐって激しい政治抗争(10月政変)が起こったものの、同年12月12日には国民投票によってロシア連邦憲法が制定された。1994年から1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア連邦軍との間で第一次チェチェン紛争が発生し、一般市民を巻き込んで10万人以上が犠牲になった。1997年5月に和平に向けてハサヴユルト協定が調印され、5年間の停戦が合意された。ところが1999年8月、チェチェン独立派勢力(チェチェン・イチケリア共和国など)と、ロシア人およびロシアへの残留を希望するチェチェン共和国のチェチェン人勢力との間で第二次チェチェン紛争が発生した。1999年夏からイスラム急進派の排除という名目のもとに、ロシア軍は全面的な攻勢に出ている。同年8月にロシアの首相に就任したウラジーミル・プーチンらがこの強硬策を推進した[9]

1996年11月、ロシアは第一回だけで10億ドルのユーロ債を起債した[44]。それまでの累積ユーロ債発行額は160億ドルほどに達した[44]

1999年12月8日、当時の大統領エリツィンとベラルーシの大統領アレクサンドル・ルカシェンコとの間で、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野での統合を目指すロシア・ベラルーシ連合国家創設条約が調印された。しかし、その後、後継大統領に就任したウラジーミル・プーチンが、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになってからは、これに反発するベラルーシ側との対立により、両国の統合は停滞した。2022年ロシアのウクライナ侵攻にルカシェンコは協力しているが、ベラルーシ共和国軍の参戦は回避している。

プーチン政権

1999年12月31日、当時の大統領エリツィンが任期を半年余り残して突然辞任した。首相のウラジーミル・プーチンが大統領代行に就任し、2000年3月の大統領選挙に圧勝して大統領に就任した[9]。「法の独裁」による統治をめざす強権的体質が内外から批判される一方、安定した経済成長により国民の高い支持率を維持し、2004年にも再選された[9]

2003年ミハイル・ホドルコフスキーが脱税などの罪で逮捕・起訴され、ユコスの社長を辞任した。シブネフチとの合併が取り消されるなどして株価が乱高下し、内部者取引が横行した。2005年にロシアの住宅私有化率は63パーセントに達し[43]、国際的な不動産価格の下落へつながっていった。2007年、ホドルコフスキーを除くユコス株主らはロシア政府がユコスを破綻させたとしてハーグ常設仲裁裁判所へ提訴した。2010年6月26日、政府側のロスネフチに賠償命令が出た。7月27日には内部者取引と株価操作を取り締まる法案が可決された[45]。これは翌年から施行された。2014年7月、ユコス破綻事件で政府は19億ユーロの賠償金支払いを命じられていたが、12月に欧州人権裁判所が政府の上訴を棄却した[46]。2016年4月、ハーグ地区裁判所が、ロシア政府に株主らへ500億ドルの賠償金支払いを命じた常設仲裁裁判所の判決を棄却した[47]

政権初期にチェチェン共和国への軍事作戦を再開するとともに、周辺各共和国への締めつけも図った。チェチェン独立派を支持するサウジアラビアなどアメリカに友好的な湾岸スンニ派諸国との関係悪化を招いた。これらの過程において報道管制を強化し、反政府的な報道機関やジャーナリストは強い圧力をかけられた。対外的には、上海協力機構を通じて中国イランとの関係を強化し、また、中央アジア各国とはエネルギー開発の面での協力を強めた。ウクライナで親西側政権ができると、天然ガス供給停止措置をとることで圧力をかけ、間接的にドイツやフランスへの自国の影響力を誇示した。

また、プーチンの大統領就任当初は、アメリカ同時多発テロ事件以降の対テロ戦争という目的から蜜月といわれたアメリカとの関係も、イラク戦争イラン核開発疑惑といった諸問題を扱うなかで悪化、また、米国が主導する旧ソ連各地のカラー革命などロシアの裏庭地域へのアメリカによる露骨な政治介入、アメリカの反ロシアネオコン勢力が中心となって行った東ヨーロッパのミサイル防衛構想、ソ連崩壊時に北大西洋条約機構(NATO)は東方へ拡大しないとしたゴルバチョフと当時のアメリカ大統領ブッシュの取り決めが破られ、実際にはNATOの東方拡大が進んだなどの理由により、関係は冷却化した。一方で、首脳同士の懇談は頻繁であり、かつての冷戦とは異なる様相である。プーチンが行った事業はいずれも西側諸国から強圧的であるとの批判が多いものの、結果的にはロシアの国際的地位を向上させた。これにはプーチン政権発足後から続くエネルギー価格の急騰により、対外債務に苦しんでいたロシアが一転して巨額の外貨準備国となり、世界経済での影響力を急速に回復したことも寄与している。2007年には2014年冬季オリンピックを南部のソチで開催するソチオリンピックの招致に成功した。

2008年5月、側近のドミートリー・メドヴェージェフが大統領に就任したが、プーチンも首相として引き続き残留した。同年、メドヴェージェフ政権下で南オセチア問題を原因とする南オセチア紛争が発生。これはソ連崩壊後、初めての対外軍事行動となっている。これらの行動から国際政治での多極主義を唱えて、ロシアが新たな一極となろうとしているとの見方がなされた[誰によって?]。事実、「アメリカの裏庭」であるベネズエラエクアドルなどの反米的な中南米諸国との関係を強化している(逆に、アメリカは「ロシアの裏庭」であるウクライナジョージア(グルジア)などとの関係を強化している)。このように、冷戦終結後の一極主義の維持を目指すアメリカ側と対立する「新冷戦」の開始をもいとわないとも見られ、緊張状態が続いている[48]

クリミア併合

2014年ウクライナ騒乱により、財政援助を目的にロシアとの関係を強化していた同国の大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが解任されるとロシアのプーチン大統領は反発し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行の暫定政権を承認しなかった。

2月27日、以前からクリミア半島に駐留していたロシア軍部隊によって、1954年までロシア領で親ロシアの住民が多いウクライナのクリミア自治共和国セヴァストポリ特別市が掌握された。

クリミア自治共和国とセヴァストポリは、3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票を実施し、その結果を受けて翌3月17日に両者はクリミア共和国として独立し、ロシアへの編入を求める決議を採択した。

3月18日、プーチンはクリミア共和国の要請に応じ、編入に関する条約に署名してクリミア半島を併合した。アメリカ、欧州連合、そして日本などの諸外国政府はクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとし、ロシアとの間で対立が続いている(2014年クリミア危機)。この経緯によってロシアはG8の参加資格を停止され[5]、欧米諸国がロシアに経済制裁を科した。

2011年から始まったシリア内戦では反体制派を支援する欧米に対し、中東での影響力を維持したいロシアがイランと共にバッシャール・アル=アサド政権に対して軍事的・経済的に援助を行っていることで欧米諸国と代理戦争に近い様相となり、対立を深めている。2015年9月30日にはロシア連邦軍がアサド政権を支援する直接的な軍事介入を開始(ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆)。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾いたことに加え、アサド政権とクルド人勢力の双方を支援していることから両者の仲介や、当初はアサド政権打倒を目指し欧米と協調して反体制派を支援していたトルコがクルド人勢力への対応で欧米と対立するに伴いシリア戦後処理へのトルコの引き込み、さらにエジプトイラクイスラエルといった親米国家であるもののアサド政権打倒後のシリアの安定に懐疑的な近隣国にも接近しつつあり、シリア内戦の収束に向けて主導的な役割を発揮し、中東での確固たる地位を築いている。

プーチンによる外交は、アメリカの大統領バラク・オバマに並ぶ世界的な影響力を持ち[要出典]、クリミア半島併合以降はとりわけ国民の支持も厚くなっている。一方、2013年以降に原油価格の暴落が続いたことで、天然資源に依存した脆弱な経済体制が浮き彫りとなり、深刻な経済的困窮を招いている。

2017年1月、アメリカで親ロシア派と公言していたドナルド・トランプ政権への政権交代があったものの、アメリカ国内でロシアへの敵対感情が高まっているため、弱腰外交と捉えられるような親露外交は回避し[49]、米露間の関係が修復する兆しは一向にない。2016年アメリカ合衆国大統領選挙におけるロシアの干渉や、ウクライナ紛争を巡るミンスク和平合意の不履行による報復措置がとられたり[50]、ロシアが条約に違反したとして中距離核戦力全廃条約から撤退したりするなど[51]、両国間の溝は深まるばかりである。

2018年ロシア大統領選挙ではプーチンが4選された[52]

ウクライナ侵攻

2021年1月、アメリカで反ロシア派と公言しているジョー・バイデン政権への政権交代があり、今後も米露関係修復の見込みはないと考えられている[50]

2022年2月、プーチンはウクライナ東部の反政府組織が建国したドネツク人民共和国ルガンスク人民共和国を国家として承認し、ウクライナに事実上宣戦を布告。親ロシア勢力の保護を名目にウクライナ国内に侵攻し、交戦状態に入った(2022年ウクライナ侵攻)ことにより、アメリカを中心とする国際社会から厳しい経済制裁をうけることとなり、西側諸国との対立は深まり、新冷戦と呼べる状況に陥っている。

2024年ロシア大統領選挙ではプーチンが5選され、首相時代を含めたプーチン政権の期間は30年となり、ヨシフ・スターリンをも凌ぐ長期政権を確実にした[53]

政治

ロシア連邦大統領府であるクレムリン

国政では連邦制共和制半大統領制をとっている。国家元首であるロシア連邦大統領がおり、三権である

は分立している。

大統領

ロシア連邦大統領は国家元首で、国民の直接選挙で選ばれる。ソ連崩壊に伴う独立・独立国家共同体(CIS)への加盟構成以降、大統領の任期は4年であったが、2008年の憲法改正によって6年となった[54][注釈 17]

行政

行政権は、ロシア連邦政府に属する。なお、大統領は外交と国防を、政府は内政を担当するとされている。

大統領は、連邦議会の同意を経て、政府の長である連邦政府議長(首相に相当する)を信任し、連邦政府議長の提案に基づいて、その他の閣僚を任命する。

なお、連邦政府議長は、副大統領としての地位を兼ねており、大統領が欠け、または大統領に職務遂行上の故障がある場合においては、大統領の職務を代行する。

行政権の行使について、連邦政府は連帯して、大統領と連邦議会に対して責任を負う。よって、法律、大統領令、及び連邦政府の定める政令には、連邦政府議長及び主任の閣僚の副署を必要とする。

大統領は、閣議を主宰することができる。

大統領は、国家の基本的な施政方針を定め、連邦政府の助言と同意に基づいて、憲法および法律の定めるところにより、大統領令を発動する。

連邦政府は、憲法、法律、および大統領令の実施に関する詳細、および大統領の判断を必要としない事項についての決定を行い、連邦政府議長は、閣議に基づいて行政各部を指揮監督する。

憲法、法律および大統領令に違反する連邦政府の命令、決定及び処分は、大統領が取り消すことができる。

大統領は、大統領全権代表(戦前日本の官選知事に相当する)を任命する。

大統領全権代表は、連邦管区を統括し、国家の政策を画一的・統一的に遂行する上で必要となる事項について、地方政府の活動を統督する。

大統領は、国家安全保障会議を主宰し、国防および治安維持に関する基本的な方針を定め、ロシア連邦軍及びロシア国家親衛隊を統帥する。

立法

ロシア連邦議会Федеральное Собрание Российской Федерации, Federal'noe Sobranie Rossijskoj Federatsii)は二院制で、各連邦構成主体の行政府と立法府の代表1人ずつからなり、上院に相当する連邦院連邦会議Совет Федерации, Sovet Federatsii 、定員178名)と、下院に相当する国家院国家会議Государственная Дума, Gosudarstvennaja Duma 、定員450名)からなる。下院議員は任期4年で、小選挙区制比例代表制により半数ずつ選出される仕組みであったが、2005年4月23日完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。また、5パーセント条項が7パーセント条項へと議席を獲得するためのハードルが上げられ、ウラジーミル・プーチン政権、シロヴィキに有利な選挙戦が展開された。また、大統領と同様に2008年に任期が5年に延長された。

司法

ロシアの司法には、最高位にロシア憲法裁判所英語版ロシア最高裁判所ロシア最高仲裁裁判所英語版がある。その下にロシア地方裁判所英語版、地域裁判所がある。裁判は大陸法型である。行政府からの訴追は司法省が担当する。1996年に陪審制を連邦各地に順次導入することを決定、2010年までにすべての地域で導入された。

1996年[いつ?]から死刑の執行を停止していたが、2009年11月19日に、憲法裁判所は死刑の廃止を規定している欧州人権条約批准するまでは死刑の執行を停止するという命令を出した。この憲法裁判所の命令で、ロシアの死刑制度は事実上廃止された。2010年1月15日、ロシア下院は、欧州人権条約第14追加議定書を賛成多数で批准し、名目上も死刑が廃止された。

政党

複数政党制を採用しており与党統一ロシアが圧倒的多数を占めており、他にも野党として極右ロシア自由民主党極左ロシア連邦共産党などをはじめ様々なリベラル派中道派民族主義愛国主義社会主義共産主義を活動理念に掲げる政党が存在する。しかし、これらの政党はいずれもプーチン政権に従順な「体制内野党」とされており、野党としての機能は喪失しているという指摘がある[55]

北方領土