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アイヌ(アイヌ語: Aynu / アィヌ、ロシア語: Айны[3])は、北は樺太から北東の千島列島、カムチャツカ半島、北海道を経て、南は本州北端部にまたがる地域に居住してきた民族である[4]。渡来系弥生人の文化(日本語など)に同化吸収されずに残った、縄文人の系統だと考えられている。本土日本人(大和)、琉球人(沖縄)と共に縄文文化圏に含まれる。現在は日本国内に大部分が居住している。2019年5月に施行された「アイヌ施策推進法」では「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族である」と明記されている。 概要アイヌは永くオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた[5]。すなわち生業から得られる毛皮や海産物などをもって、黒竜江下流域や沿海州との山丹交易を仲介したほか、カムチャツカ半島南部の先住民族のイテリメン族と交易を行っていた。また、日本列島の和人とも交易を行い米などの食料や漆器、木綿、鉄器などを入手していた[5]。 アイヌは、元来は狩猟採集民族であり、文字を持たず、物々交換による交易を行う。独自の文化を有する[6]。母語はアイヌ語。独特の文様を多用する文化を持ち、織物や服装にも独特の文様を入れる[注 1](かつては、身体にも刺青を入れた)。家(住居)(アイヌ語で「チセ」)は、(昭和期以降の学者らが)「掘立柱建物」と呼ぶ建築様式である。 アイヌは日本とロシアに居住する「少数民族[7]」であり、現在の日本国内では日本国籍を持つ人の民族についての調査はされていない[8]ため、少なくとも北海道や首都圏に幅広く居住していることくらいが漠然と分かっているだけとなっている。研究者らの間でさえも、「だれがアイヌ民族か」「だれをアイヌ民族として対象とするか」で議論があり[9]、正確な居住地域や正確な数などはよくわかっていない。 2007年には国際連合において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されるなど、世界的に、先住民族への配慮を求める要請が高まってきた[10]。(そうした世界的な要請も視野に入れつつ)翌2008年(平成20年)には日本の衆・参両院の本会議においても「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択された[10]。さらに日本の国会は、2019年(平成31年)4月19日に「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(アイヌ施策推進法)」を制定し、法律として初めて「先住民族」と明記された[11][12]。 呼称アイヌアイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない[注 2]。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族(和人、シサム・シャモ[注 3])とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけての時期とされている。 ウェンペ アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使っていた。悪い同胞を彼らはアイヌと言わず、ウェンペ(悪いやつ)と呼んだ[14]。 地域差 地域によって文化や集団意識が異なり、北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「メナシクル」と称し、同様に太平洋岸西部のアイヌは「シュムクル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」などと呼ばれるなど居住地域ごとに互いを呼びわけていた。 時代別の呼ばれ方 大和民族(和人)は、中央政権から見て開拓されていない東方や北方に住む人々を古代中国の呼び名より「蝦夷」、幕末期には「土人(その当時は純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉であったが、大正時代以降には次第に侮蔑感とともに使われるようになったとされる[15])」と呼称し、次第にこれが渡嶋から北の人々を指す言葉となり「アイノ」(=アイヌ)と同一して呼ばれるようになる。 その他にも一般的には「アイヌ人」「アイヌの人々」「アイヌ民族」など様々な呼び名があり、歴史的文書にも色々な言い方がされている。 アイヌの民族形成の過程を「縄文文化と続縄文文化のプレアイヌ」→「擦文文化のプロトアイヌ」→「近世アイヌのアイヌ」→「近代以降のアイノイド」と変化していくと1972 年「典型的なアイヌ文化」(埴原和郎ほか)で規定する枠組みと民族集団形成のモデルが提示された[16]。 ウタリウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間である[17]が、長年の差別[注 4]の結果、「アイヌ」という言葉に忌避感を持つ人が多いことから、アイヌを指す言葉として用いられることがあり、1961年から2006年にかけ、行政機関の用語としても使用されていた。1930年(昭和5年)に設立されたアイヌ民族の団体組織である北海道アイヌ協会も、同時期の1961年から2009年まで「北海道ウタリ協会」に改称していた。 蝦夷→詳細は「蝦夷」を参照
朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあったが、アイヌと古代の蝦夷との関連については未だに定説はなく、日本史学においては一応区別して考えられている。北海道、樺太は遅くとも平安時代末に和人の定着が見られるまでは、多種多様な種族部族が分散、集落での対立が多く、統一した民族ではなかった。また、文字が無く、どのような統治状態なのか全く分かっていない。 東北地方の蝦夷(えみし)は和人により古代から征討の対象とされ(蝦夷征討)、平安時代の民夷融和政策により、平安時代後期までには東北地方北端まで平定され和人と同化した[23]。 中世以降、アイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた[24]。 また、黒竜江(アムール川)下流域や樺太に居住する他の諸民族から、樺太アイヌは骨嵬(クギ)などと呼ばれていた[25]。 歴史アイヌは、人類学的には日本列島の北海道縄文人と近い。アイヌの人々のもつ形質や遺伝的特徴は、縄文時代にまでさかのぼるものがある一方で、オホーツク文化の強い影響もある[24]。本州の多くで農耕文化の弥生時代が始まったころ、北海道周辺では狩猟採集生活様式が継続する続縄文文化の生活様式が営まれていた。大和朝廷による記録として、日本書紀には阿倍比羅夫が齶田/飽田(秋田)・渟代(能代)・津軽の蝦夷を平定し朝貢を受けたこと、渡嶋(現在の北海道と考えられる)へ渡った阿倍比羅夫が当地の蝦夷の要請を受けて、蝦夷と軍事的緊張状態にあった「粛慎」(ツングース系部族やオホーツク人とする説があるが詳細は不明)を征討したという記事が見られる。7世紀以降東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られる。移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている[26]。この頃より続縄文文化が変化して擦文土器に代表される擦文文化が始まっている[24]。古代の文書に記された「蝦夷」にアイヌが含まれていたかどうかには議論がある[24]が、これら擦文文化やオホーツク文化は、アイヌ文化の原型が見られるものである[24]。 擦文時代には加工具、農耕具、狩猟具、武器、武具、装身具、生活用具として続縄文時代よりさらに多くの鉄器が普及し、石器の使用は減少していった[27]。擦文時代の遺跡からは鍛冶や精錬の遺構がいくつか発見されているが、道南を除きその数は少なくこれらの鉄製品、あるいは半製品は主に本州、東北地方から移入されたものとみられる[28]。鉄器の使用は擦文時代を通じて拡大していった。擦文時代の後期になると擦文人の経済力の拡大を背景に[29]、和人との交易により大量に移入された鉄鍋や漆器が使用されるようになり、それまで自製していた土器[30]も次第に作られなくなっていった。この擦文土器の終焉をもってアイヌ文化期へ移行したものと区分されている。ただし内耳鉄鍋を模倣した内耳土鍋は北海道で15世紀頃まで用いられており[31]、また北千島では18世紀、あるいは19世紀頃まで土器が使用されていたと考えられている[32][33]など、土器の使用が短期間にアイヌの全地域で消滅したわけではない。北海道においては擦文時代からアイヌ文化期にかけて住居もそれまでの竪穴建物から、主に本州の平地建物の影響により、あわせて北方文化の要素も取り入れたチセへ移行する[34][35]。擦文時代の建物に導入されたかまどがすたれ、炊事は囲炉裏でのみ行われるようになる。また、擦文時代には多くの遺跡からキビ・アワ・オオムギの種子や農具としての鎌が出土し、鍬先・鋤先出土(9か所)例も有る[36]など、狩猟採集と並行して農耕が盛んに行われていた。アイヌ文化でもその狩猟採集と農耕の並行が続けられたが、地域差はあるものの農耕はおおむね低調となり、狩猟採集に比べて補助的な役割となった。一方でアイヌ文化においても近世前半までは農耕がより盛んであり、農耕の衰退はアイヌ文化の成立期ではなく、近世後半に起きた現象であるとの分析もある[37]。 このように13 - 14世紀頃には狩猟・漁撈・採集と一部の農耕を組み合わせ、交易を行うアイヌの文化的特色が形成された[24]。擦文文化からアイヌ文化への移行は11世紀に北海道の日本海沿岸で始まり、13世紀にかけて北海道のほぼ全域に広がっていった[38]。 12世紀以降、道南に和人の定着が始まり、13 - 14世紀には鎌倉幕府によって安東氏が蝦夷管領に任じられ、道南に幕府の影響力が及ぶようになった。13世紀までにはアイヌは樺太へも進出し定住していたが、やがて樺太在地のニヴフ(オホーツク文化人の子孫と考えられる)と対立するようになった。そこでニヴフがモンゴル帝国・元に救援を要請したため、1264年、モンゴル帝国は樺太に侵攻し、アイヌ征討を図った。アイヌとモンゴルとの間の戦争は長期化したが、1308年、樺太アイヌがモンゴルに毎年獣皮を朝貢する事を条件に講和が成立した。 アイヌからオロッコと呼ばれたウィルタともアイヌは交易していた。1457年には道南でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した[24]。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草を入手し、対価を鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていた[24]。また、清から伝わった蝦夷錦などの衣服を当初はアイヌを介し輸入した(山丹交易)。北千島を除き、郷村制が敷かれ、アイヌの有力者を役蝦夷に任命。アイヌは百姓身分に位置づけられていた。1669年のシャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった[24]。江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄領とした[24]。幕末、箱館奉行によって、アイヌも和人も分け隔てなく疱瘡対策の種痘を行い、同時にアイヌの呼称は「蝦夷」から「土人」に改称された。 1771年(明和8年) - 択捉島のアイヌと羅処和島のアイヌが団結し、得撫島と磨勘留島でロシア人を数十人殺害する事件が発生しており、アイヌとロシア人の関係は、良好な状態だけではなかった[39]。 1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約により、当時の国際法の下、一部がロシア国民とされた[要出典]。 明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、和人の人口が増加した[24]。戸籍制度において、アイヌの人々は日本国の「平民」とされるが、イオマンテや入墨、耳環など、アイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。1871年には女子の入墨とチセウフイカ(故人を弔うためその家を焼く風習)が禁止される[40]。 同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、アイヌ語の禁止などは行われなかったものの、教育が日本語で行われた[注 5]ことでアイヌ語話者は漸減していく[24]。1875年、地租改正によってアイヌの土地も私有財産と見做されるが、多くのアイヌは地権という概念に馴染めず、和人にこれを詐取される者が続出し、多くが移住を余儀なくされる[24]。また、乱獲による動物の減少を防ぐためとして伝統的な狩猟、漁撈も制限され[注 6]、生活も困窮の一途をたどっていく[40]。対策として、政府は1899年に北海道旧土人保護法を施行し、無償医療の提供、冬季生活資糧の給付、土地の無償下付や農具の給付など、様々な救済措置を実施した[40]。しかし北海道は元来、農地に適していない土地が多く、また充分な農業指導が行われなかったため、アイヌの生活改善は遅れた[24]。 |
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